ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

知恵の重要性

●知恵の重要性


知恵が重要であることについては、語り過ぎることはないと思います。主は、私たちが非倫理的な決断をするための基準を与えてくださいました。それが「知恵」です。伴侶の選択に当たっては、知恵を尽くして悔いのない選択をする必要があります。聖書の約束を見てみましょう。


「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」ヤコブ1:5~8


知恵を別の言葉で言うなら、「見分け」あるいは「健全な判断」です。繰り返しますが、あなたが倫理的御心の範囲内にいるからといって、愚かな選択(決断)をしないとは限りません。神の御心という駐車場の中ではあっても、おろかな駐車スペースに車を停めてしまうことはあり得ます。それは罪ではありません。御心を損ねたわけでもありません。ただ賢くなかったということです。

もしあなたが線路的な御心観に捕らわれているとしたら、知恵に関する学びはあなたをそこから解放するでしょう。私は皆さんに失望や混乱、罪責感を味わってほしくないのです。ヤコブ書は、神が私たちに「知恵」を与えてくださると教えています。ですから私たちに必要なのは、信仰によって知恵を求めることなのです。

知恵とは、自分が置かれている状況において、何が自分に益をもたらすかを見分ける能力です。仮に私が若干二十歳の、無思慮で独身のクリスチャンだったとしましょう。肉体には精力が満ちており、いろいろな誘惑に晒されています。思いは乱れて、手に余るものがあります。にもかかわらず、全生涯を独身で過ごすという誓いを主の前に立てたとしたら、それはこの上ない愚かな決断と言えるでしょう。おわかりだと思いますが、そのようなことは実に馬鹿げたことです。

私は、自分が結婚すべきであることを悟るために、わざわざ神に願って、夢で示していただいたり、天使を遣わしていただいたり、内なる語り掛けを与えていただく必要はありません。目に見えるしるしを表していただく必要もありません。ただ知恵さえあれば、わかることです。

さて、クリスチャンがクリスチャンの異性と結婚することは、御心であり、駐車場の範囲内です。パウロは、ペテロや他の使徒たちのように、自分もクリスチャンの妻をめとって巡回奉仕に連れて行く権利があると述べています(汽灰螢鵐硲后В機法ですからパウロには、信者の女性と結婚する自由がありました。でも、ここで注意していただきたいのは、だからと言って、信者なら誰でもよいというわけではないということです。長期間にわたって馬が合わない相手と過ごす悲劇を回避するには、知恵を求める必要があります。

ですから、あなたがクリスチャンと結婚するならそれは御心の範囲内ですが、馬が合う相手と結婚するためには、十分に知恵を使わなければなりません。大きな決断をする際には、知恵を求めることが不可欠なのです。

知恵は、次のようにあなたに問いかけるでしょう。「自分にとっても、他の人にとっても、霊的に益になることは何か。」「神の国を推し進めるには、何が最善か。」「自分を含めて、関係者たちに最善なのはどういう決断か。」

霊的に同等な益をもたらす決断が、いくつもあるかもしれません。その場合、どれを選択するかは重要ではありません。どれをとっても賢いからです。他方、あなたの決断次第では、長期にわたり多大な利益をもたらす決断もあれば、多大な損失をもたらす決断もあります。婚期にある独身の男女にとっては、どういう決断をしてもよいというわけにはいきません。結婚する時期について賢明な判断をするために、知恵が必要です。

端的に言って、非倫理的決断に関しては、神が超自然的な啓示を与えてくださるという約束はないということです。神は、啓示の代わりに知恵を与えてくださると約束しておられるのです。

それでは、非倫理的決断をするに当たって、どのように知恵を求めたらよいのでしょうか。一つは、単純に主に求めることです。ただ、求めたからといって、神が超自然的な啓示やしるし、内なる示しなどを与えてくださるわけではありません。しかしながら、「見分け」も一種の知恵ですし、「健全な判断」も一種の知恵なのです。

神が知恵を与える常套手段は、経験です(しかも、しばしば自分や他者の失敗という経験を通してお与えになります)。ですから若い人たちは、年上の人から知恵を得ることが賢明です(箴言13:20)。自分よりも経験豊富な人から知恵を得ることは、賢いことなのです。たとえば箴言には、ソロモン王の知恵が満ちています。彼は、キリストが人類史に介入する以前に生きた人の中で、もっとも賢かった人物です。彼の知恵は、私たちの教訓のために記録されているのです。

キリストのからだにも、知恵があります。信仰の先人たちがいます。(ですから私たちは、彼らの著書や証しを通して学ぶことができます。)また、存命のクリスチャンたちの中にも、重要な相談事で頼りになる人たちはいます。

例えばの話をしてみましょう。私が車を買うことにしているとします。賢い買い物をするために、私は車に詳しい人に相談をします。また、車の買い方に関して研究した人の文章を読んで勉強もすることでしょう。また、主が超自然的な啓示によって、これこれの車を買いなさいとおしえてくださるかもしれませんが、そのような約束があるわけではありません。ですから、そのような啓示が来ることを当てにすることはできません。

ただ、私が求めるなら、神が知恵を与えてくださることは期待できます。加えて、箴言が勧めているように、知恵を探し求めることもできます(箴言4:5、8:1)。知恵のある人は、自分よりも知恵のある人から教えを受けるとあります(箴言9:9)。

箴言には、「多くの助言者によって救いを得る」とも書かれています(箴言11:14、24:6)。まるで、拾った金貨が自分のものになるようなことではありませんか。


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