ダビデの日記

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にせ預言者? その2

にせ預言者? その2


にせ預言者についての学びを進める前に、預言(者)に関して簡単に学んでおきましょう。旧約時代の預言者と新約時代の預言/預言者の違いが明確になっていないために、にせ預言者に関しても誤解していしまう危険性があるので、それを回避したいと思います。


●旧約の預言者と新約の預言/預言者の違い

*旧約時代
において、もし主によって語らなかった場合、つまり自分の心(自分の霊)や悪霊によって預言した場合、その預言者は死ななければなりませんでした(申命記18:20、エゼキエル14:9)。

ですから、主の預言者(真の預言者)はすべての預言を主の霊によって語り、間違い預言は一度も語らなかったのです。逆に、一度でも間違い預言をした預言者は、主によって遣わされた預言者ではありませんでした(=旧約時代の「にせ預言者」)。


*新約時代
は、預言者であってもなくても、クリスチャンであれば誰でも預言できるようになりました(汽灰螢鵐硲隠粥В械院法

また新約時代の預言には、間違いが許容されます(汽灰螢鵐硲隠粥В横后↓汽灰螢鵐硲隠魁В后嵳存世垢襪海箸皸貮分」)。

預言の賜物を与えられている人が預言しても、間違い預言をする可能性はいくらでもあります。エペソ4:11の「預言者」が預言しても、また叱りです。


*旧約時代と新約時代の預言における秩序変更の理由
旧約時代においては、一般の主の民には\士遒与えられていなかった、旧約聖書も完結していなかったために、預言の吟味、見分けという作業が著しく困難だったためと思われます。

一方、新約時代は、聖霊も聖書もあるので、主の民はかなり吟味と見分けができるようになりました(万人祭司:汽撻謄蹌押В機■后法汽灰螢鵐硲隠粥В横垢如⇒存世髻文譴襪曚Δ任呂覆)聞いている人に対して、「吟味しなさい」と言われているのもこのためでしょう。

新約時代は、救われているクリスチャンでも、預言する際に自分の思いを語ってしまったり、他の霊をキャッチしてしまうことが許容されます。ですから、他の霊(悪霊)で預言したからと言って、その人は「にせ預言者」ではありません。依然として、神の子どもであり、主イエスの兄弟であり、罪赦された義なる者です。




●「にせ預言者」(マタイ7章)

参考文献を用いて、もう一度、マタイ7章の「にせ預言者」の箇所を解釈してみましょう。


*「羊のなりをしてやって来る」(15節)

「羊」:羊はヘブル人が最も愛した動物であり(競汽爍隠押В魁法△修寮質は、おとなしく、素直で(イザ53:7、エレ11:9)、従順である(ヨハ10:4)。-新聖書辞典p1035より-

「なり」:「上着」という意味のエンデューマというギリシャ語が使われています。



*「うちは・・・狼」

「うち」:「内側」や「たましい」という意味のエソーセンという言葉が使われています。

「狼」:聖書時代のパレスチナ地方では、狼は羊ややぎなどの家畜の大敵であった。新約聖書では、偽預言者、偽教師(マタ7:15、使徒20:29)、この世の悪質狂暴な人間(マタ10:16、ルカ10:3)を指す。-新聖書辞典p245より-


ギリシャ語英語詳細訳では、次のように訳されています。

「にせ預言者たちから絶えず自分自身を守っていなさい。彼らの特徴として、彼らは羊のような外見をしてあなたがたのところにやって来ますが、内なる存在においては、貪欲な狼です。」


*「実によって彼らを見分けることができる」(16節、20節)

「見分ける」:エピギノスコーという言葉が使われており、(何らかのしるしによって)「知る」、「完全にわかるようになる」、「正確にわかる、」「よくわかる」などの意味があります。

主イエスが「実によって見分ける」というフレーズを2度繰り返しています。これは、にせ預言者たちの結ぶ実が、余程はっきりと彼らの本質を表していることを意味していると思われます。


*「全然知らない」(23節)

「知る」:ギノスコー。知る、知るようになる、知覚する、知覚するようになる、~に関する知識を持つ、感じる、理解する、(ユダヤの慣用句では、男女間の性交を意味する)、知り合いになるなど。


*ギルの注解

I never knew you; which must be understood consistent with the omniscience of Christ; for as the omniscient God he knew their persons and their works, and that they were workers of iniquity; he knew what they had been doing all their days under the guise of religion; he knew the principles of all their actions, and the views they had in all they did; nothing is hid from him. But, as words of knowledge often carry in them the ideas of affection, and approbation, see Psa_1:6 the meaning of Christ here is, I never had any love, or affection for you; I never esteemed you; I never made any account of you, as mine, as belonging to me; I never approved of you, nor your conduct; I never had any converse, communication, nor society with you, nor you with me.

「わたしはあなたがたを全然知らない」は、キリストの全知性との関連において理解されなければなりません。全知の神であるキリストは、にせ預言者たちがどのような人物であり、彼らの行いがどのようなものであるかを知っていました。また彼らの不法の行いについても知っていました。彼らが宗教に見せかけて、行ってきたことを知っておられました。彼らの行動の内容、彼らの価値観もすべてご存知でした。キリストから隠されていたものは、何一つありません。しかし知識に関する言葉は、しばしば愛情や賞賛に関わる意味合いを持っているのです(詩篇1:6参照)。この箇所でキリストが意味しているのは、次のことです。わたしはあなたがたに愛や愛情を持ったことはまったくなかった、わたしはまったくあなたがたを尊重したことはなかった、わたしはあなたがたをわたしの民として、わたしに属する者として、大切に思ったことはまったくなかった、わたしはあなたがたの言葉も行いも是認したことはなかった、わたしはあなたがたと会話したこともまったくないし、意思の疎通もなかったし、交流もなかった、あなたがたと一緒にいたこともまったくない。


*バーンズの注解

I never knew you - That is, I never approved of your conduct; never loved you; never regarded you as my friends. See Psa_1:6; 2Ti_2:19; 1Co_8:3. This proves that, with all their pretensions, they had never been true followers of Christ. Jesus will not then say to false prophets and false professors of religion that he had once known them and then rejected them; that they had been once Christians and then had fallen away; that they had been pardoned and then had apostatized but that he had never known them - they had never been true christians.

「わたしはあなたがたを全然知らない」の意味。わたしはあなたがたの行いを承認したことは一度もないし、あなたがたを愛したこともまったくない。わたしの友として見なしたこともまったくない。(次の箇所を参照のこと 詩篇1:6、競謄皀藤押В隠后↓汽灰螢鵐硲検В魁)これらのことから、にせ預言者たちは様々な真似事をしたにもかかわらず、彼らがキリストの真の従者であったことはまったくないのです。イエスがにせ預言者らに対して、次のように言うことはありません。わたしはかつて彼らを知っていたが、その後、彼らを拒絶したとか、彼らはかつてはクリスチャンであったが、その後、堕落してしまったとか、彼らは一度は罪赦されたが、その後、見捨てられたと。イエスはこういうでしょう。わたしは彼らを知っていたことはまったくない。彼らが真のクリスチャンであったことはまったくないと。


ギリシャ語英語詳細訳は、23節を次のように訳しています。

「その時、わたしは彼らに対して公の宣告をします。わたしがあなたがたを、経験的に知っていたことはまったくありません。不法を働いている者たちよ。わたしから離れてゆきなさい。」



●まとめ

羊と狼は、敵対関係にある動物の例え。両者がまったく別のものであることを示していると思われます。

それくらい「にせ預言者」は、本質において本当の預言者と違っているのでしょう。

執筆者であるマタイの言葉の使い方から、その人物が「にせ預言者」であることは、ユダヤ人やクリスチャンには、はっきりとわかってしまうようです。

つまり、クリスチャンの間で、本物かどうか意見が分かれるような微妙な表れ方ではなく、誰もがはっきりと「違う」「おかしい」とわかるレベルで、実が表れるのではないでしょうか。



●私の結論

やはり新約聖書の言う「にせ預言者」は、救われていない人、イエスを本当の意味では知らない人ではないでしょうか。未信者なのに主の預言者のふりをして、いろいろ語ったり、行ったりする人。でも、ユダヤ人やクリスチャンから見ると、実によってはっきりと本物ではないことがわかってしまう。原語の意味や学者たちの解釈からみて、イエスが語っている「にせ預言者」は、そういう人たちだと私は思います。


みなさんは、いかがですか?