ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

新約時代の献金

ディボーション日記



何日も日がたってしまいましたが、


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新約時代の献金について思わされたことを書こうと思います。





2Co 9:7

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、

心で決めたとおりにしなさい。

神は喜んで与える人を愛してくださいます。




●背景


パウロがコリントの教会に手紙を書いていた頃、


世界にはひどい飢饉が起こっていました。


それによりエルサレムでは、主にある兄弟姉妹たちが食べ物に不足し困っていました。


競灰螢鵐硲検腺江呂蓮▲泪吋疋縫笋筌▲ヤの教会がそのことを知り、


エルサレムの教会のために献金をしたことが背景になっています。


この背景については、以下の箇所が参考になります。




Act 11:28~30

その中のひとりでアガボという人が立って、

世界中に大ききんが起こると御霊によって預言したが、

はたしてそれがクラウデオの治世に起こった。

そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、

ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。

彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。




Rom 15:26~27

それは、マケドニヤとアカヤでは、

喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。

彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、

同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。

異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、

物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。




●私の感想


自発的で、喜んで捧げることが新約時代の献金の精神であることが、


コリント書からわかります。


しかしローマ15章では、


自発性だけではなく、同時に義務であったとも書かれていて、


奥が深いなと思いました。




義務であった理由は、


異邦人はユダヤ人から霊的もらい物をしたから、ということです。


日本の教会は、欧米の宣教師から霊的もらいものをしているわけなので、


欧米の教会に何かしたほうがいいのかな、と考えさせられました。


(おりしも今年は、プロテスタント宣教150周年だとか。)




私などは、まさに宣教師を通して救われているので、


何かの形で彼らの助けになることをすべきなのかなと・・・。