ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

ハウスチャーチ・レポート第5回

●もう一つの集会
さて、もう一つの集会、というか交わり会のことからレポートしよう。
今回、こちらの集会は、土曜日の午後2時くらいから6時くらいまで、Tちゃんのアパ-トで行なわれた。


●内容
分かち合い
ギター演奏つき賛美
祈り(特にひとり一人に対して、みんなで手を置いて集中的に祈ることが導かれた。)


●参加者
Tちゃん、T姉妹、ダビデのほかに、3人の兄弟たち。

さてこの3人の兄弟たちだが、これがまたまた実に個性的。三者三様である。
その中の一人は特に個性的で、「歩く福音書」「受肉した十字架」「バプテスマのヨハネ」など、初対面の兄弟に対して、私がこれだけ一辺にあだ名をつけたことは未だかつてない。

このM兄弟は、口を開けば十字架が必ず出てくる。
十字架を語るために生きているような人物。

そうだ。いまもう一つ思いついたので加えておこう・・・「歩くパッション」。   

注:パッション=メル・ギブソンが製作した、イエスの十字架刑の映画


彼は表面上は同じ様なことばかり言っているのだが、言うことに不思議な深みがある。
彼自身の中で十字架の福音が完全消化されており、自分の実体験から来るところの生きたメッセージが、口を突いて出てきているという感じ。
誰かから拝借したメッセージではない。

うまく言葉で表現できないのが実に残念だが、
個人的には、このようなクリスチャンに出会ったのは初めてである。

彼が救われたのちに、行っていた教会が自然消滅してしまったのだが、
その後、他の教会にはほとんど行っていないらしく、
逆に、教会に毒されていないことが功を奏したようだ。
聖書のみから来る純粋さが、フレッシュな状態のまま保存されているらしい。


●今回の集会についての感想
おそらく、教会の集会を行なったというイメージを持っている兄弟は、誰もいないだろう。単に交わり会をした、という印象を持っているだけだと思う。それでいい。ハウスチャーチの目的は、ハウスチャーチと呼ばれる集会を提示することではなく、イエスご自身を提示することだからだ。

そういう意味では、今日の集会は、そのようになったと思う。
ひとり一人が何かを受け取ったと思う。
少なくとも参加者の半分は主に触れられて泣いていた。

先のM兄弟などは、みんなから祈られている間に大泣きになって、ティッシューで鼻をかまないといけないくらいだった。
手を置いて祈っていたT姉妹もティッシューがないとダメ状態だったし、
私も聖霊の感動が伝わってきて半泣きで祈っていた。


●今後の課題
こちらの集会の課題は、いささかチャレンジを受けるものがある。というのは、一人の兄弟が、某有名聖書研究プログラムを持ち込もうとしているからだ。

■プログラム
programとは、pro=前もって、gram=書く が合わさったもので、前もって書くというのが原義である。これが教会の中で使われると、実質的にどういうことになるのだろう。

教会のかしらはキリストである。従って集会の導き手は聖霊だ。

ところがプログラムを使って集会をするということは、「主よ。私たち人間が前もって集会のシナリオを書いておきました。こういう順番でこれを学んで、そのあとでこういう祈りをするのです。このようにして私たちが集会を導きますから、あなたはただそれを祝福するだけで結構です」と言っているようなものではないだろうか。何をどうするかが前もって決まってしまっているのだから、聖霊が集会を導く余地はない。

それでもプログラムというのは、それ自体悪いものではないのかもしれない。しかしあくまで人間が作ったものなので、どんなに優れたプログラムであっても万能ではない。Aさんの必要は満たすかもしれないが、Bさん、Cさん、Dさんの必要までも満たすとは限らない。

時間が無駄に過ぎて行ったり、聖霊の意図とは方向が異なる行き違い状態を作り出してしまう可能性がある。なので聖霊の自由な働きが命であるハウスチャーチにおいては、こういうマンメイドのものには注意が必要だ。

プログラムを使うというインスティテューショナルな思索を持ったクリスチャンに対する対応は、将来、必ず必要になってくるだろうから、学びと経験という意味ではとてもいい機会である。主がどのように対応されるのか、とくと拝見させてもらおうと思う。


●上記に関する学び

「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。」競灰螢鵐硲隠院В

日本語の聖書で「真実と貞潔」と訳されている部分は、ギリシャ語ではハプテロスという一つの単語である。意味は英語ならsimplicity、日本語なら「簡素さ」「簡潔さ」といった感じだろう。

この聖句は、別にプログラムについて述べているのではないから、その点は誤解のなきようお願いしたい。しかし聖書が、「キリストにある簡素さ」が教会から奪われないようにと注意を促していることには間違いないことを覚えてほしい。この聖書の原則をプログラムに関しても適用する必要があるということだ。一言で言えば、シンプル イズ ベスト。

人は知恵を使い、主にあって良かれと思ってプログラムを作るのだろうし、使う側も同じ思いで用いるのだろうが、所詮マンメイドなので聖霊の直接的な働きにはかなわはない。つまりプログラムというのは、ある意味、聖霊の代用品のようなものだ。なので、それを使うということは、うんと悪く言ってしまうと、サタンにとっては「しめしめ」ということになる。

聖霊に信頼させる代わりに、プログラムに信頼させる。そして、ある程度の効果は許容する。聖霊がじかに働くよりはマシだから、サタンにとってはしめたものなのだ。

しかしこれは、うんと悪く言った場合のことなので、実際にはプログラムにも良い点はあるだろうし、捨てたものではないかもしれないから、使ってみるのも経験としていいかもしれない。永久に用いることには、絶対反対だが。


●金曜日のハウスチャーチ
こちらは、安定した聖霊の働きが毎回ある。

*前回の反省事項であった賛美の音の問題もクリアされた。賛美中にP兄が外に出てチェックしてくれたが、まったく問題ないということで、ハレルヤ。しかし思いっきり主を賛美し礼拝する素晴らしさの味を占めてしまっているので、再びそうしてしまうかもしれないというワイルドさが、この集会のメンバーにはある。

*今回の新しい出来事として、ダビデ兄が小さなホワイトボードを献品。これを使って、ミニ聖書研究をした。内容はこのブログに書いたのと同じ、教会の一致に関して。霊的一致というものが、突然勝手に生まれ出るものではなく、兄弟姉妹が主によって歩み寄ることではじめて一致が生まれるということを学ぶことができて充実した。

*主の晩餐だが、重荷を持っていたT姉妹の仕事の都合で、今回は見送りとなった。次の機会を待つ。

聖霊の賜物の働きについて、考えされている。働きが全くないわけではない。祈っているときに知識の言葉のようなものが来て、相手の本当の必要が思いに浮かんでくる。しかし預言など、もっと起こっていてしかるべき賜物の働きが今のところ起こっていない。これはどういうことなのか?

アメリカのあるハウスチャーチの指導者の話では、彼も、また彼と一緒にハウスチャーチを始めた仲間たちもカリスマ派教会出身だったので、賜物の働きは体験していたそうだ。だから彼らのハウスチャーチでも賜物の働きはあったのだが、主が一旦それを委ねるようにと言われ、しばらくの期間は賜物を用いなかったそうだ。けれども時が来たときに、カリスマ運動の中で行なわれたような、奇怪で怪しげな感じの賜物の働きではなく、とても自然で調和のとれた賜物の働きが「復活した」と言っていた。

メンバーのT姉妹には、かなり優れたレベルの預言の賜物が与えれていることを私は知っている。彼女は聖霊の強い働きを集会の中で感じているが、こと預言に関しては、いまのところ一度も語っていない。

どうも主の側に、何らかの思惑があるような気がしている。賜物の働きを起こす前にやっておきたいことがあるとか、何か学ばせたいことがあるとか。メンバーを整えておきたいとか。

はっきりわからないので、委ねつつ待ち望んで行きたい。



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