ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

エリート主義

ディボーション日記



Gal 4:9

今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、

どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、

再び新たにその奴隷になろうとするのですか。




1Co 8:3

人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。





これらの御言葉によれば、クリスチャンは間違いなく神に知られています。


しかし、一方でこう教える方もいらっしゃいます。




「携挙のとき、携挙されるクリスチャンとされないクリスチャンに分かれるのです。

 
 -中略-


しかし携挙されなかったクリスチャンは、戸の中、つまり、天の御国に入れず、戸の外、


患難時代のこの世か、大患難時代のこの世に置かれたままになるのです。」






これは、私が以前所属していた団体の指導者が、自身の携挙に関する著作の中で、



マタイ25章の10人の娘の箇所を解釈しているくだりです。






その箇所をお読みいただければわかりますが、



戸が閉められたあと、



愚かな娘たちは、ご主人さま(=主イエス)からこう言われるのです。



「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」(マタイ25:12)







この指導者のように、愚かな娘たちをクリスチャンと解釈するなら、



主イエスがクリスチャンの一部に向かって「あなたがたを知らない」と言うことになり、



先に挙げたガラテヤ書や汽灰蠅慮羝斥佞反慎佞砲覆辰討靴泙い泙后







信頼できる聖書注解者たちは、


マタイ25章の「愚かな娘たち」は真に救われたクリスチャンではなく、


宗教的にイエスを告白しているだけの人々と解釈しています。







●エリート主義


私はその団体に22年間所属していました。


私のクリスチャンライフの大半をそこで過ごしてきたのです。


この団体の献身者たちはとても熱心で忠実です。


彼らは毎朝5時台に起き、早天ディボーションをするよう指導されています。


牧師、宣教師、またその夫人らは、一日5時間以上祈り、聖書を10章以上読むことになっています。


上位者の権威に対する従い方は軍隊並みで、


言葉が悪いかもしれませんが、盲目的服従を教えられます。


海外にも熱心に出てゆき、霊の戦いや宣教を行います。


その際には、9食分の断食祈祷をして、事前の備えをします。


熱心で忠実なのは素晴らしいことですが、


そうでないクリスチャンを心のどこかで見下す傾向があることは否めません。





Luk 18:9~14

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。


「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。



パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。



『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、



ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。



私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』



ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。



『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』



あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。



パリサイ人ではありません。



なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」






私は、このように言われるお方が、



救われたクリスチャンに向かって、



仮に彼らが、主の再臨に向けて十分な用意ができていなかったとしても、



「わたしはあなたがたを知りません」と言い、天国に迎えないとは思えません。






むしろ主イエスは、私たちが思う以上に寛大なお方です。



Mat 20:8~14



こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。



労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』



そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。



最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、



彼らもやはりひとり一デナリずつであった。



そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、 言った。



『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。



私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』



しかし、彼はそのひとりに答えて言った。



『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。



自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。


自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。



それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』



このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」





アーメン