ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

携挙と救いの関係(その2)

「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、栄光の教会」(エペ5:27)


これまで個人主義的な観点から考察してきましたが、今からは、神が興した集団である教会に関して考察しましょう。各々の信者には、個人レベルでの特権や責任があると同時に、集団の一員としての特権と責任もあることを認めなければなりません。この種の真理が最も多く述べられている書簡といえば、エペソ人への手紙です。


エペソ書は、「教会」に関して非常に多くのことを教えています。教会とは、召し出された者たちの集まり、つまりペンテコステの日から携挙に至るまでに、キリストのものとして呼び出され、御霊によるバプテスマを受けて一つの体とされた者たちのことです。エペソ書では、教会は組み合わされた建物や神殿にたとえられています(エペソ2:20~22)。また身体、つまり、キリストの体にたとえられています(エペソ1:22~23、3:12~16)。そして花嫁、あるいは妻にたとえられています(エペソ5:25~27)。


この見方をすると、ひとり一人の信者は、大きな集合体の中の小さな一部分ということになります。そしてこの大きな集合体は、単に単品を寄せ集めた集合体ではなく、いのちのある有機的組織です。


このことについてよく考えてみてください。というのは、多くのクリスチャンは、このことを知っているとしても、捉え方が実に不十分だからです。教会は有機的な性質を持っているのです。人の身体になぞらえて書かれているのはそのためです。


例話で説明させてください。


遊び終えて帰宅する少年が、ビー玉の入った袋をぶら下げています。たくさんのビー玉があり、大きさや材質が違っています。いくつか鮮やかな色をしたものがあり、赤い色の石のビー玉、つまりメノウのビー玉があります。メノウのビー玉は、恐らく少年の一番のお気に入りでしょう。大きな袋に一まとめに入っているので、人口的なまとまりがあります。余りにも多くのクリスチャンが、教会もこのビー玉の袋のようだと思っています。いろいろな違いを持った個々のクリスチャンの集合体だと思っているのです。


しかし神の考え方は、まったく違います。教会は「組み合わされた建物」です(エペ2:21)。つまり接合部分が、がっしりと噛み合うように組み合わされているのです。建物の資材同士がしっかりとくっついていて密着しているのです。ですから教会とは、とても丈夫です。単に構造的に一まとまりになっているというのではなく、有機的な一致を保っているのです。ちょうど、血液が人体の隅から隅まで流れていて、ひとつの頭によって体全体が統制されているのと同じです。教会はキリストの花嫁として、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、栄光の教会」として、御前に立たされるべきものです。携挙の後、そして聖徒たちが裁きの御座の前にひとり一人出された後、教会は栄光の現れに向けて整えられ、御前に立たされるのです(黙示録19:6~9)。


それでは、部分的携挙、あるいは選抜的携挙という考え方は、この教会像と適合するでしょうか。まったく無理です。もし教会が、ビー玉の袋のようであれば話は別です。少年は、袋の中に手を突っ込んで、メノウのビー玉やガラスのビー玉だけを取り出し、つまらない平凡なものは残しておく、ということが容易にできるでしょう。けれども建造物から、「生ける石」でできた装飾の部分だけを取り除くとなると、そうは行きません。エネルギッシュで役に立つ器官だけを体から取り除き、切り刻まれた残骸はあとに残しておこうというやり方は問題外です。


教会にはしみがなくなる、つまり、いかなる汚れもなくなります。また、しわがなくなる、つまり、老齢の痕跡がなくなります。そして「そのようなものの何一つない」状態になる、つまり、その他いかなるタイプの汚れもない状態になるのです。これほど強い、徹底した表現はありません。この表現は、一部の選ばれたクリスチャンだけから構成された教会が、携挙されて御前に立たされるという考えとは、まったく一致しません。もし部分携挙、あるいは選抜携挙が起こるのであれば、しみやしわのない完全な教会というよりは、切り刻まれた断片を主の御前に立たせることになるからです。


そういうわけで私たちは、汽謄汽蹈縫隠粥В隠供腺隠靴砲蓮∩抜的携挙説が求めるいかなる条件も伴うことはないと信じるのです。