ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

キリストに対する真実

ディボーション日記




Gal 2:18

けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、

私は自分自身を違反者にしてしまうのです。





パウロは初志貫徹しているなぁと思わされました。



彼には二心がありません。






2Co 11:3

万一にもあなたがたの思いが汚されて、

キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。






「真実と貞潔」と、二つの言葉で訳されている部分は、原語では一語の単語で表現されています。



そのハプロテスという言葉は、「真意を隠すことがない誠実さ」を表します。



偽善や見せ掛けのない正直さです。








私は以前、牧師をしていました。



聖霊の働きを重視し、徹底して聖霊の導きに従うことを願いとし、



そうできるよう祈っていました。






日曜日は当然、私が主日礼拝を導きます。




牧師は、まじめであれば、あるほど、礼拝におけるプログラムを忠実にこなそうと努めます。




会衆賛美、聖餐式献金、説教、祝祷。




一通りの内容をこなすことが秩序のある礼拝式であり、そうすることが務めだと思っていました。








しかし時として、



聖霊が別のことをするように願っているのでは、と感じることが何度もありました。






今日は、兄弟姉妹たちに証をしてもらったほうがいいんじゃないだろうか。



(礼拝が始まる前、兄弟姉妹たちと何気ない交わりをしていて、



礼拝を始める時間が来たけれど)、この交わりをこのまま続けたいなぁ。



毎回毎回、この式文を繰り返す必要があるのだろうか・・・。






それらの自由な思いの中には、本当に聖霊からの促しがあったと思います。



何回も。






今、組織的、制度的な教会を離れ、



ハウスチャーチに参加するようになってみて、それがはっきりわかります。







聖書の中の教会は、そうでした。



儀式の繰り返しなど聖書には書かれていません。



集会のプログラムやその順番も、どこにも書いてないではありませんか。



ある時は、彼らは祈るだけでした。



しかし集まっていた建物が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、



御言葉が力強く語られ、



しるしと不思議が神によって行なわれました。








私は聖霊ではなく、人が考案したプログラムに従っていたのです。



生ける神ではなく、自分が集会の「主」になっていました。



教団の方針に従うことと、生ける神に従うことのどちらが神に喜ばれるのでしょうか。



ある意味、組織が神にとって代わっていませんか。



教会のかしらは、人ではありません。



団体でもありません。



神学でもないのです。






私たちにとって、「キリストに対する真実」とは何でしょうか。