ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

携挙と救いの関係(その1)

携挙と救いの関係


自分で書くよりも、この方の論文を訳したほうがまとまりがあって良いと思い、そうすることにしました。

一辺に訳すことは無理なので、何回かに分けて掲載します。文章全体を訳し終わった後に、改めて通しで読むことができるように、「肉体のあがない」という書庫を作り、そこに掲載していきたいと思います。


論文名:「Will all The Saints Be Caught Up When The Lord Comes?」/「聖徒はみな携挙に預かるのか?」
著者名:F.B.Hole/F.B.ホール
サイト:http://www.biblecentre.org/topics/fbh_will_all_the_saints_be_caught_up.htm


以下の文章は、上記の論文の後半「The Redemption of our body」/「肉体のあがない」を訳したものです。上記に挙げた「バイブルセンター」という英国のサイトに掲載されている論文です。



「肉体のあがない」

後半では、携挙という表現は直接使いませんが、主の来臨に関わるいくつかの聖句を論じてゆきたいと思います。それらの聖句が携挙という大いなる出来事に関して語る内容は、その出来事の性質を決定するもので、重大な意味を持っています。聖句は以下の通りです。ローマ8:23、ローマ13:11、エペソ1:13~14、エペソ4:30、汽謄汽蹈縫隠機В検腺隠亜↓競謄汽蹈縫隠押В隠魁↓汽撻謄蹌院В機■院В隠魁


これらの箇所を注意深く読み、内容を吟味していきましょう。


1.これらの聖句には、主の来臨を連想させる意味合いが含まれています。またその来臨が聖徒の希望であり、主が最終的に目指している事柄であると述べています。

2.主の来臨の特徴として言えることは、信者に対する裁き、律法、信者の功績とは無関係であり、むしろ「あがない」「救い」「恵み」などの言葉によって表現されているということです。


この点は極めて重要ですので、注意深く検証すべきです。まず、上記の中に挙げた聖句の中で、他の聖句の代表とも言える、一番最初の聖句を見ていきましょう。


ローマ8:23

「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」


この箇所における主の来臨に関する言及は、とてもはっきりしています。そのことは、ローマ人への手紙のはじめのほうに述べられています。クリスチャンとは、罪責感から解き放たれ、キリストの十字架によって罪の支配と責めから解放された存在です。キリストの十字架によって、信者はアダムとの関係が断ち切られ、キリストにある者とされました。そして、キリストの御霊が内住する者となりました。


信者の霊とたましいに関しては、すでにあがないが完了しており、主の来臨時に、肉体があがなわれるのを待つばかりです。それによって、霊、たましい、肉体とも自由にされ、信者は「神の子どもたちの栄光の自由」の中に踏み入ることになるのです(ローマ8:21)。このあがないは、私たちのいやしい体が変えられて、キリストの栄光の体と同じようにされることによってもたらされるものです(ピリピ3:20~21)。


さて、ここで、「あがない」という言葉に注目してください。この言葉の特徴を一言で言うなら、聖書の至る所で主の来臨とペアで語られている、ということです。その来臨に続いて、キリストの裁きの座と主の栄光の現れが起こります。これらには、責任、報い、あるいは喪失、そして裁きなどが伴っています。これが思いつく限りの特徴です。


それではここで、反論を恐れもせず断言します。あがないは、聖書の至る所で憐れみと関連付けて語られています。逆に、人の功績とは関連付けられていません。あがないは神の恵みと関連していますが、人の忠実さとは無関係です。決定的に重要な事実は何かといえば、汽謄汽蹈縫隠粥В隠供腺隠靴砲△襪箸り、主の来臨のときに聖徒たちに起こることは、肉体のあがないだということです。死んでいた聖徒のよみがえりと、生きている聖徒の変貌と、その両者がいつまでも主と共にいるようになることは、恵みの行為であって、裁きの行為ではないということは疑う余地がありません。終わりの時代に背教が起こるとユダが予想したとき、主の来臨に関して、聖徒たちにとっては憐れみによる避難の手段として、述べていることが納得できます。「永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい」(21節)。


それでは前述の事実を、私たちが直面している問題に当てはめて見ましょう。主イエスが、聖徒たちの肉体をあがなうために救い主として来られるとき、この「憐れみ」は信者全員に注がれるのでしょうか。それとも、一部の目を覚ましていたクリスチャンだけ、あるいは他に秀でて多く偉業を成し遂げたクリスチャンだけに注がれるのでしょうか。もし読者が、あがないと憐れみは聖書の中で関連付けられているという真理に同意なさるのであれば、神の啓示である「携挙」については、どう考えますか。たましいに関しては恵みによってあがないがなされるが、肉体に関しては私たちの落ち度に応じてあがないがなされる、ということがあり得るでしょうか。十分目を覚ましていられなかったからという理由で、肉体に関してはあがないの条件が永遠に変更されてしまうのでしょうか。


私たちは迷うことなく答えます。それはあり得ません。≪部分的、あるいは選抜的携挙説は、人間側の忠実さに根ざした考えであって、神が「恵み」によって始められたあがないの業を、「行い」によって完成させると教えているのと同じことです。そのような教えは、ガラテヤ人たちが犯した過ちと実質的に同じです。≫そのようなことを教える方々には、パウロと同じ質問をお尋ねします。「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」(ガラ3:3)。