ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

神が罪を赦してくれる理由 1ヨハネ1:9


 
 罪を告白すると、どうして神は赦してくれるのでしょうか?
 
 
罪の赦しは真実さによる
 
ヨハネ19(岩波翻訳委員会訳)
もし私たちの罪を告白するならば、彼は真実義しい方であるから、私たちのその罪を赦し、私たちをあらゆる不義から清めてくれるであろう
 
 
「真実」と訳されているのはピストスという言葉で、
 
信頼に足る、忠実な、信じられるという意味です。
 
 
 真実であるというのは神の性質の一つです。
 
 次の聖句は、神の真実な性質のゆえに、
 
 私たちが救いの中に入れられたことを示しています。
 
 
神は真実(ピストス)であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました1コリント1:9 
 
 
 ヨハネ1:9の原文を見ると、

 ヨハネがピストスをフレーズの前方に位置づけ、強調していることがわかります。

 
 πιστός   ἐστιν   καὶ   δίκαιος,
  真実な     彼は~である    そして     義なる 
 
 
 神は、救いに導いた真実さと同じ真実さによって、私たちの罪を赦すのです。
 
 告白した罪が赦されるのは神が真実だからであって、
 
 なあなあで赦すわけではないということです。  
 

あらゆる不義から清め
 
「あらゆる」の部分には、パスという言葉が使われています。
 
すべて、全体、あらゆる種類のという意味です。

 
 罪を認めて告白するとき、神は一部だけ赦すのではなく、全体を赦してくださり、
 
 特定の種類の罪だけ赦すのではなく、あらゆる種類の罪を赦してくださるのです。
 
 
マタイ12:31 
だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます
 
 
現状と対策
 
 ところが私の経験では、数多くのクリスチャンが罪責感を持ったまま歩んでいます。
 
 中には、自分の罪は赦されないと固く思い込んでいる人さえいます。
 
 一つの原因は、御言葉よりも自分の感覚のほうに信頼しているからだと思います。
 
「聖書には赦すと書かれているけど、赦されている感じがしなぁ~い!
 
 という漠然とした感覚のほうを信じているのです。
 
 これはきっぱりと止めなければいけません。
 
 霊の戦いでもあります。
 
「真理の帯」を締め忘れていませんか?(エペソ614
 
 
 もう一つの原因は、「赦されない罪」に関する理解が曖昧だからだと思います。
 
 そこで「赦されない罪」に関する記事を他のサイトから引用しましたので、
 
 関心のある方はお読みください。
 
 神学博士が書いたものも見つけておきました。
 
 
赦されない罪とは?

「神学博士 吉村博明 宣教師」の説教より 聖書箇所はマルコ32030
 
さて、最後に、神が赦さないという罪、聖霊に対する冒涜についてみてみましょう。なぜ、聖霊に対する冒涜がこんなに大きな罪になるのかについて、まず聖霊はどんな働きをするのかを振り返ってみる必要があります。(中略)
 
まず、聖霊は「弁護者」(ヨハネ1526節、167節)としての役割を果たします。それは、悪魔が神の前で信仰者を指さして、この者は罪の汚れを持つ者です、情け容赦は無用です、と神に訴える時、聖霊は、この人はイエス様を救い主と信じる信仰を持っています、その証拠に白い衣を手放さないでしっかり纏っています、と弁護してくれます。
 
それから、聖霊は「真理の霊」(ヨハネ1526節、1613節)とも呼ばれます。どういうことかと言うと、もし人が、神の意思に背くことをしてしまった時、また背くようなものが自分の内にあることに気づいた時、神との結びつきが失われてしまったという恐れや心配に陥ります。その瞬間、聖霊は次のように言います。「あなたは今、心の目をゴルゴタの丘の十字架に向けなさい。あそこにいるのは誰ですか?あの方の両肩に重くのしかかっている全ての人間の罪の中にあなたのものも入っているのをしっかり見届けなさい。」
 
人間の内に罪があるという真理をわからせるのも、また、このように救いの真理を告げて人間を罪の底から絶えず引き上げてくれるのも聖霊です。このような聖霊を侮辱するというのは、人間を神のもとに立ち返らせる働きそのものを侮辱することです。十字架と復活の出来事の前の段階では聖霊に対する侮辱とは、本日の福音書の箇所にあるように、イエス様が聖霊の力を得て行ったことを悪霊の力と言ったことでした。十字架と復活の出来事の後の聖霊に対する侮辱は、人間が罪の赦しを持てなくなるようにすることが明白になりました。
 
愛する兄弟姉妹の皆さん、そういうわけで、自分の罪を白日の下に晒しだされるようなことがあっても、すぐ十字架の主のもとに立ち戻れば、私たちはそれで聖霊の働きの中に入っていますので、何の心配もありません。イエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限り、聖霊を冒涜するということはありえないので安心して行きましょう



  ゴット・クエスチョンより
 
今日、唯一赦されない罪というのは、不信の罪、つまりイエスを信じないことです。イエスキリストを信じないで死んだ人には、罪の赦しはありませんヨハネ3章16節は、乞う言っています。「 神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」誰かが赦しを得ることができない唯一の条件は、その人が「信じる者」の中に入っていないことです。イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰ひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14章6節)救いのためにたった一つしかない方法を拒むことは自分を永遠の地獄に送ることです。なぜなら、唯一の赦しを拒むことは、明らかに赦されない罪だからです 。

多くの人たちは、神にどうしても赦されない罪を犯したのではないかと恐れて、いかなる行いをしても自分には希望がないと思っています。サタンにとって、これほどうれしいことはありませんサタンは、私たちをこのような間違った考えの下において、一生賢明、労働するようにしておきたいのです実を言えば、このような恐れのある人は、単に神の御前に出て、そのことを告白して悔い改め、神の赦しの約束を受け取ればいいのです。 「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第1ヨハネ1章9節)この聖句は、私たちが神の元へ悔い改めていくとき、どんなにひどい罪でも、神はいつでもどんな罪でもすぐに赦す準備をして待っておられると確信させてくれます。もしあなたがきょう、罪責の重荷で苦しんでおられるなら、神は、愛と憐れみを持って、その両手を開いてあなたが神のところへ来るのを待っておられます。神は絶対に、あなたを失望させたり、赦さなかったりされないのです

 

「心に響く聖書のことば」より
 
イエス・キリストを見た人は父なる神を見たのです。そしてイエス様に注がれた聖霊によるしるしを彼らは目の前で見ました。三位一体の神の現れとしるしを見て、それでも彼らはののしり、冒涜したのです。それが彼らの罪でした。従って、聖霊に逆らう冒涜とは、はっきりと聖霊の働きが示されているのにも関わらずそれを拒み、ののしり、冒涜する人たちの事です。彼らはキリストが差し出された神の国とその救いを拒み、反逆しました。自分で自分を滅ぶべきものとしました。そのような人が救われることはないのです。

 
 
↓最後までお付き合いくださりがとうございました↓