ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

1ヨハネ1:6に関する質疑応答

 
 記事を読まれた方からご質問をいただきましたので、私なりにお答えします。
 
質疑応答
 
<神と交わりがある>の、<神>は「何」をさしているのでしょうか?
 
「神」とは誰なのかという質問ですが、ヨハネ1315を参照すると、
 
 具体的には「父なる神」のことであることがわかります。 
 
 しかし神学的な話をすると、
 
 エペソ117に「神を知るための知恵と啓示の御霊とあるとおり、
 
 私たちは聖霊の啓示によって神と出会い、神を知ることになります。
 
 神との「交わり」も同じで、御霊の啓示を通してなされます。
 
 なので、御霊と交わっている、と言うことも可能です。 
 
 
誰にとっての、どんな、どういう存在の「モノ」?なのでしょう?
 
 救いとは、集団ではなく個人と神との間で交わされる「新しい契約」です。
 
 その契約において「神」という存在は、「ひとり一人の信者にとっての神」です。 
 
 また私たちは、アバ、父よ」と呼ぶ御霊をいただいていますので、
 
 神は私たちの「霊的な父」です。 

 これについては、イエスご自身がマタイ689こう言っています。
 
あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ・・・
                               (新共同訳)

 
<神と交わりがある>と言う状態が、どのように、<しかもやみの中を歩んでいるなら>に繋がるのでしょう?
 
 これは良い質問ですが、難問でもあります。
 
ヨハネ16
もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません
   
 上記のブルーの部分は、接続法の現在形で書かれています。
 
[接続法(Subjunctive Mood)] 話し手が表現対象を「事実だと思っていない」または「事実かどうかの判断を留保している」ことを表す
 
 
 
 要するにヨハネは、両者は同時に起こり得ないと言っているわけです。
 
 また、現在形には継続の含みがありますから、
 
 ライフスタイルとして神と交わりがある人は、
 
 ライフスタイルとして闇の中を歩み続けないというのがヨハネの主張です。 

 しかしこれは、罪をまったく犯さないということではありません。
 
 8節でこう言っているとおりです。
 
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません
 
 
 また闇の中を歩むことは、単に罪を犯すだけでなく、
 
 神に関する知識もないこと意味します。ですから質問の答えとしては、
 
<神と交わりがある>ことと、<しかもやみの中を歩んでいるなら>の間には、
 
 関連性がありません。繋がりはないのです。
 
 それゆえヨハネは、「偽り」だと言っているわけです。
 
 このことを言い換えている箇所が、次の箇所だと思います。 
 
だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません(現在形)。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのですヨハネ3:6  
 
 
具体的な日常の人間の行い、態度、習慣などの中には、自ら自覚することのできない、意識化にもない矛盾が多く、闇の中を歩いていると見えたり、思えたりしても、そこに人間とのコイノニアを神の側から作り出してくださっていると信じる中で、何が、どういうことが、人間を、やみの中に歩かせることになるのか?
 
 闇の中を歩くということは罪を犯すことであり、神を知らないことなので、
 
 ライフスタイルとして「闇の中を歩く」人は、基本的にノンクリスチャンです。 

 しかし信者であっても、罪を犯すことはいくらでもあるわけです、
 
 次の箇所は、その状況を示しています。  
 
ローマ7:15 ~17
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです
 

 このように、信者の中にある罪の性質が罪を犯させます。
 
 ヨハネの言葉とは一見矛盾しますが、

 上記「している/行なっている」も現在形です。
 
 なのでパウロは、ライフスタイルとして自分のしたくないことをしていたのです。
 
 しかし同時にそれを「憎む」(現在形)とも言っています。
 
 罪を「憎む」というのは、信者の特徴だと思います。
 
 
実のところ、人間には、「真理を行う」ことなど「できる」のでしょうか?「できてる」?のでしょうか?
 
「人間」という表現が信者を指しているという前提で答えますが、
 
 不完全であるかもしれませんが、信者が「真理を行う」ことは可能です。
 
 その可視的な証拠が、私たちクリスチャンの存在そのものだと思います。
 
 
使徒8:26~38
主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに・・・女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。・・・宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。・・・ピリポは・・・イエスのことを彼に宣べ伝えた。・・・ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
 
 
 この記事は、ピリポが御使いと御霊に従い、「真理を行った」ことを伝えています。
 
 彼の従順を通して御霊が働き、ひとりの人が救われました。
 
 私たちは神の子どもとされたお陰で、真理を行うことが可能になったのです。
 

<神と交わりがある>と言う表現は、自らを神そのものとしてるかのような、危険な???表現でしょうか?
 
 これは相対的な問題だと思います。
 
 私はそう考えませんが、世の中にはそのように考える人もいるかもしれません。
 
 しかし論理的な話をすると、誰かが「Aさんは神と交わりがある」と言った場合、
 
 Aさん自身は神ではない、というのが普通は前提になります。
 
 Aさんは、神という別の存在と交わっている、と普通の人は考えるはずです。 
 
 答えになったかどうかはわかりませんが、以上です。
 
 
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