「御霊がすべての真理に導き入れる」というのは思い込みにすぎない
この題目を見て、「遂にこのブログの主は、聖書信仰から迷い出たか!」と思われた方がいるのではないでしょうか。
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
クリスチャンたちによるこの箇所の理解の仕方は、様々です。
その見解そのものは神学的には正しいと思いますが、それなら「真理の御霊」の部分を「聖書」に置き換えるべきでしょう。
また、ある人は、「真理」に自分なりの定義づけをして、この箇所の「真理」とはキリストの救いに関する真理だと言います。
イエスは弟子たちに、「・・・真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」(ヨハネ16:13)と言われました。御霊は私たちの理性に、礼拝、教理、クリスチャン生活に関わる神の助言を明らかにしてくださいます。
(強調はブログ主)
しかし、もしこれらの見解が正しいのなら、どの教団・教派の教理も同じ聖書に基づいているのに、なぜ膨大な数に分かれるのでしょうか?
もし聖霊が「礼拝、教理、クリスチャン生活」に関わる真理にクリスチャンを導き入れるのなら、
なぜ、教会ごとに礼拝のスタイルが違い、牧師ごとにクリスチャン生活に関する指導が異なるのでしょうか?
幾つかの言い訳をつけたとしても、この御言葉と現実が噛み合っていないことは確かです。
それでは、やはりブログ主は、この箇所を否定しているのでしょうか?
もちろん違います。
私が否定するのは、クリスチャンたちによる解釈と適用の仕方です。
●文脈の重要性
この箇所は、最後の晩餐のときに、主イエスが十二弟子に語られたことの一部です。
ヨハネ16:13は、正に適用できない部分です。
敢えてこの箇所の「すべての真理」を定義づけするなら、教会の土台となる教えとか、使徒による言い伝えということになるでしょう(2テモテ1:13~14)。
つまり、この箇所は、初代の使徒には当てはまりますが、それ以外のクリスチャンには適用できません。
この記事のタイトルは、そういう意味です。
初代教会で教理的な異論を唱えたのは、それ以外の人たちです。
言い方を変えると、この箇所の御言葉は、初代の使徒たちに紛うことなく成就したのです(ガラテヤ1:11、12)。
ですから、この御言葉は間違いなく真理ですが、私たちには適用できません。
私たちの多くは、文脈を考えずにこの箇所を解釈したり、適用したりしているのです。
聖書の言葉は、文脈の中で解釈しなければならないことを示す、典型的な箇所ではないでしょうか。
終わり