ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「御霊がすべての真理に導き入れる」というのは思い込みにすぎない


 
 この題目を見て、「遂にこのブログの主は、聖書信仰から迷い出たか!」と思われた方がいるのではないでしょうか。
 
 私は、ヨハネ1613を否定しているのでしょうか。
 
 
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
 
 
 クリスチャンたちによるこの箇所の理解の仕方は、様々です。
 
 ある人は、聖霊が直接的に何かを示すのではなく、聖書を用いて真理に導き入れるのだと説きます。
 
 その見解そのものは神学的には正しいと思いますが、それなら「真理の御霊」の部分を「聖書」に置き換えるべきでしょう。
 
 また、ある人は、「真理」に自分なりの定義づけをして、この箇所の「真理」とはキリストの救いに関する真理だと言います。
 
 また、ある国際的クリスチャンサイトは、こう言っています。
 
 
エスは弟子たちに、「・・・真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」(ヨハネ16:13)と言われました。御霊は私たちの理性に、礼拝、教理、クリスチャン生活に関わる神の助言を明らかにしてくださいます。
                              (強調はブログ主)
 
 しかし、もしこれらの見解が正しいのなら、どの教団・教派の教理も同じ聖書に基づいているのに、なぜ膨大な数に分かれるのでしょうか?
 
2001年の時点で、プロテスタントには全世界238か国に33千の教団教派」があると、あるサイトには書かれています。
 
 また、もし聖霊がキリストの救いに関する真理に導き入れるのなら、なぜカルビン主義とアルミニウス主義の見解は、数百年間も一致しないのでしょうか?
 
 もし聖霊が「礼拝、教理、クリスチャン生活」に関わる真理にクリスチャンを導き入れるのなら、
 
 なぜ、教会ごとに礼拝のスタイルが違い、牧師ごとにクリスチャン生活に関する指導が異なるのでしょうか? 
 
 幾つかの言い訳をつけたとしても、この御言葉と現実が噛み合っていないことは確かです。
 
 それでは、やはりブログ主は、この箇所を否定しているのでしょうか?
 
 もちろん違います。
 
 私が否定するのは、クリスチャンたちによる解釈と適用の仕方です。
 
 
文脈の重要性
 
 この箇所は、最後の晩餐のときに、主イエスが十二弟子に語られたことの一部です。
 
 ヨハネ福音書13章から16章までに書かれていることは、基本的にすべて十二弟子に対する言葉ですから、彼ら以外の信者には適用できない内容が含まれるのです。
 
 ヨハネ1613は、正に適用できない部分です。
 
 主イエスは、後になると十二弟子が、新約聖書を書くことになったり、教会の土台となる教えを担うようになる(エペソ220)ことを想定して、この御言葉を語りました。
 
 敢えてこの箇所の「すべての真理」を定義づけするなら、教会の土台となる教えとか、使徒による言い伝えということになるでしょう(2テモテ1:13~14)。
 
 つまり、この箇所は、初代の使徒には当てはまりますが、それ以外のクリスチャンには適用できません。

 この記事のタイトルは、そういう意味です。
 
 それが証拠に、初代の使徒たちは教理的に一致していました(使徒15章、エルサレム教会会議)。
 
 初代教会で教理的な異論を唱えたのは、それ以外の人たちです。
 
 言い方を変えると、この箇所の御言葉は、初代の使徒たちに紛うことなく成就したのです(ガラテヤ1:11、12)。
 
 ですから、この御言葉は間違いなく真理ですが、私たちには適用できません。
 
 私たちの多くは、文脈を考えずにこの箇所を解釈したり、適用したりしているのです。
 
 聖書の言葉は、文脈の中で解釈しなければならないことを示す、典型的な箇所ではないでしょうか。
 
 終わり