ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

キリストに直結する

ディボーション日記




Col 2:16~17

こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月安息日のことについて、【だれにもあなたがたを批評させてはなりません。】これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。






「批評する」とは、「責める」「訴える」という意味です。



英語の聖書では、こう訳されています。



「だれかをあなたの裁判官にしてはならない」(新米標準訳)







教会の中で、人を縛るもの(者)があるのは残念です。



初期の教会では、律法の行いを守らなければいけないと教える人々がおり、



コロサイのクリスチャンたちを霊的に束縛していました。



束縛される=キリストからご自身からそれること、です。



人の言うことに従うことではありません。



そこでパウロは、聖徒を縛るのもの(者)と闘いました。





Col 2:19

【このかしらがもとになり、からだ全体は、・・・神によって成長させられるのです。】





「かしらに堅く結びつく」ことが必要不可欠です。



そうすることによってはじめて、「神によって成長させられる」からです。



「かしら」とはキリストご自身であって、牧師などの人間ではありません。



また人間によって、考え出された規則や教えでもありません。



エペソ4:11~13によれば、



教会指導者の仕事は、



ひとり一人のクリスチャンがキリストに結びつき、



彼らが自発的に「奉仕の働き」をするよう励ますことです。



そうなるときに、クリスチャンは成熟するからです。



Eph 4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。

Eph 4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、

Eph 4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。





教職者は、奉仕を独占すべきではありません。




また信徒をコントロールしたり、人間が考え出した教え、規則などで縛るのをやめましょう。



キリストに従うことは、キリスト教という宗教に忠実であることとは違います。




場合によっては、180度逆であることすらあります。








信徒の兄弟姉妹は、霊的に、牧師らにおんぶに抱っこしてもらうことをやめ、




自分でキリストに結びつきましょう。




「キリストに結びつく」ってどういこと?  ですか。




それは、キリストの声を自発的に慕い求め、それに従うことです。




Mat 16:24~25

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、

自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、

わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」