ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

新しい教会のあり方を求める方々へ

ラリー・クレイダーさんの証し


訳者まえがき
ラリーさんは、ドーヴ国際クリスチャン・フェローシップ(DCFI)のシニア・ディレクターをしておられます。DCFIは北米を中心として、南米、オーストラリア、アフリカ、ヨーロッパなどに広がる、セルチャーチとハウスチャーチの群れです。以下の証は、ラリーさんが、既存の教会の働きから、新しい皮袋の働きへと導かれるきっかけとなった体験を記したものです。この証しが、新しいスタイルの教会を探求している方々に、何らかの示唆をもたらすことを願います。


証しの背景
彼はそれまでの教会指導者としての働きに行き詰まり、3カ月間の休暇をとります。この体験記は、その休暇中のある朝に与えられたものを本人が体験直後に記録したもので、編集も極力抑えてあるとのことです。



●小川を渡りなさい。後戻りしてはいけません。

私は今朝、驚くべき霊的体験をしました。私はジョギングをしにおもてに出ると、今までに通ったことのない道を走ることにしたのです。田舎道をしばらく走っていると、舗装されていない、くねった道に出ました。その道は森に通じていました。途中に小川があり、その道を横切って流れています。私は小川の手前で足を止めました。向きを変えて、来た道を戻ろうとしたとき、静かでかすかな内なる声が聞こえ、「靴を脱いで、裸足で小川を渡りなさい」と言われました。私は、聖なる地の上に立たされていると感じました。

肉の思いでは、私は正直、渡りたくはありませんでした。裸足でそとを歩くのには慣れていないからです。靴を脱いで足を泥だらけにしたくありませんし、もしかしたら、とがった石を踏むかもしれません。しかし私の霊の深いところでは、靴を脱いで小川を渡るようにという同じ声が聞こえ続けていました。

すると霊的な気付きが与えられました。主は私に、従順と信仰によって一歩を踏み出し、小川を裸足で(裸足は、へりくだりの象徴です)渡るようにおっしゃっていたのです。この小川は、単に物理的な意味だけではありませんでした。霊的には、私の人生において、またドーヴ国際クリスチャン・フェローシップにとっても、とても深い意味のあることだったのです。主は、信仰とへりくだりによって小川を渡り、過去の痛み、期待していた計画、恐れ、不安、昔からの物事のやり方などを洗い流すよう語っておられました。主は私に、新しい教えと、新しい将来を与えようとしておられたのです。

私は聖霊の促しに従いました。靴を脱ぎ、ゆっくりとその「川」を渡り始めました。それは、聖なる体験でした。私の霊の奥深いところで、過去からのきよめがなされました。

この従順の一歩を踏み出したとき、私と共に主に仕えるよう召されているリーダーたちも、霊的に同じことをする必要があると感じました。へりくだって小川を渡り、聖霊の水でこれまでに受けた痛みや物事の見方、体験などを洗い流していただくのです。主は私たちを、荒野から約束のカナンの地へと召してくださいました。私たちはうしろのものを忘れ、主が将来に備えておられるものに向かって前進しなければなりません。

私は、教会名を変える必要があるかどうかを主に尋ねました。主の答えは、「小川を渡ったとき、あなたの名前は変わりませんでした。それなのにどうして教会名を変える必要があるでしょうか」というものでした。変化は霊の時限で起こればよいのです。名前は変わっても、霊的に何も変わらないということはあり得ます。主が願っておられるのは、私たちがモーセのメンタリティー(精神性)からヨシュアのメンタリティーに移ることだと思います。

モーセと神の民は、(同じところを)40年間歩き回っていました。一方ヨシュアは、約束の地に入って、敵からその地を取り戻すようにとの、はっきりとした命令を主から受けていました。モーセの働きの中心は管理でしたが、ヨシュアは軍隊を率いました!軍隊のひとり一人には、戦いに打ち勝ち、占領すべき地域がはっきりとわかっていました。しかも彼らは、仲間と共に歩み、主の目的を果たしたのです。

私は(そして私と共に小川を渡ってくれる仲間たちも)、神の民を約束の地へ連れて行くよう召されているのです。現にヨシュアも、モーセが燃える芝の所で与えられたのと同じビジョンを達成しました。私は、主が何年か前に私に委ねてくださった地下教会のビジョンを今も任されていると思っています。数年前にも、主は、新しい働きを始めるよう私に語ってくださいました。私は、70年代後半から1980年の1月に掛けて主が示してくださった、当初のビジョンを今も任されています。


●犬に注意

裸足でしばらく歩いてから、靴を履くために腰をおろしました。初めて通る道を更に進んでいくと、いくつかの新しい体験がありました。まず初めに、見知らぬ地域に行くことができました。1キロも行かないうちに、一軒の移動住宅を通り過ぎました。そこには2匹の犬がいて、私に向かって吠えました。犬たちは道の両側に一匹ずついたのですが、そのうちの一匹は、私が歩いていた道のすぐそばにいて、とても獰猛な様相をしていました。はじめは恐れが湧いてきたのですが、その道を進むことは正しい判断だとわかっていましたので、私は犬に向かって微笑み、やさしく話し掛けながら通り過ぎました。そのときその犬は私に向かって突進してきましたが、恐れる必要はありせんでした。なぜなら犬たちは鎖でつながれていたからです。吠えたり暴れたりはしましたが、私に危害を加えることはできませんでした。

私と同労者たちが信仰の一歩を踏み出し、それぞれが霊的な意味で小川を渡る決心をするとき、犬が吠えてくることがあるかもしれません(つまり、激しい批判の声が上がるかもしれません)。しかしそれは大したことではないのです。敵は、私たちに触れることはできないからです。主は私たちの心をご存知で、私たちが正しいことを証明してくださるでしょう。

なおも歩き続けていると、まるで新世界のような景色が見えてきました。きれいなくさ原が広がり、田舎道の散歩はとても楽しいものとなりました。この決断が正しかったことがはっきりわかりました。しかし同時に、それは信仰の歩みであることも確かでした。というのは、その道を行くことは、私はこのような場所には、未だかつて来たことがないからです。これは正に、将来に起こるであろう事柄の象徴的体験だと思います。私たちは、主が導いておられると信じる方向へ歩き始めることになるのだと思います。そしてその道を進むには、聖霊に全幅の信頼を置くほかありません。けれども聖霊に信頼するなら、まったき平安があるに違いないのです。


●喜びをもって建てる

次に起こった出来事には、とても大きな意味があると思います。私は古びたメソジスト教会の前を通り過ぎたのですが、同じ敷地のすぐ裏手に、建築中の新しい教会があったのです。いろいろな人がはしゃぎながら忙しそうに働いていました。屋根とアルミの骨組みはすでに出来上がっていました。驚いたことに、その教会を建てている人たちの中には、女性や十代の子どもたちもいました。新しい教会を建てるという共通の目的を果たすために、みなが一緒になって楽しそうに作業をしていました。男性たちに混じって、女性や十代の女の子も釘うちをしていました。その人たちを見ていた私の心に、興奮と喜びと期待感が湧きあがって来ました。そのとき再び、静かな内なる声が聞こえてきました。「あなたとあなたの同労者たちが信仰によって小川を渡るなら、このようなことが起こります。大きな喜びが湧き上がるでしょう」と。

この人たちが一緒になって建てていたのは教会堂という建物でしたが、同時に主は、ご自分の民を召し出して、霊的な建物を建てておられたのです。世的に見れば、この働き人たちは未経験の素人かもしれません。しかし主は、そういう霊的未経験者を用いて、霊の建物を築こうとしておられるのです。またその人たちは、新しい木材を使っていました。主は、私たちにも新しい木材(新しく生れてきたクリスチャンたち)を用いて、霊の建物を築くよう求めておられるのです。

主の目的を果たすために、私たちは協力して働くようになると思います。それは未だかつて私たちが体験したことのない、とても大きな目的であると思います。私はもはや、「旧き良き時代」に逆戻りしたくはありません。というのは、実際のところ、その「旧き良き時代」は大して良いものではなかったからです。

私は、主が過去になされた素晴らしい働きを過小評価するつもりはありません。けれども私には、ノスタルジックになると否定的な出来事を忘れてしまい、肯定的なことだけを思い出す癖があるのです。過去のことを忘れ、将来に備えられているものに向かって前進する人たちのために、主は素晴らしい計画を用意しておられると思います。

同じ道を通って、私は山小屋に戻りました。私はこの体験を決して忘れないでしょう。3カ月間の休暇は、この体験ができただけでも、取った価値がありました。主イエス・キリストに栄光がありますように!

「House To House」Spiritual Insights for the 21st Century Church, by Larry Kreider, P178-P181より翻訳



訳者あとがき
ラリーさんは近年、ハウスチャーチに関する書籍を出版しました。私は彼の本がきっかけとなって、はじめてハウスチャーチという概念に触れることができました。新しい皮袋の働きに召されているみなさんにも、さらなる主の導きがありますように。