ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「集会における女性たち」の参考文献の一つ

この文章は、「集会における女性」という論文の参考文献の一つで、「Man and Women in Biblical Perspective」(聖書の男性観と女性観)という本の一部です。

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聖書の男性観と女性観

2.「教えたり男を支配したりすること」とは、どのような意味なのか。

結婚における「かしら」の問題から、教会における「かしら」の問題に目を移すと、教会の「かしら」のほうは、その役割がはっきりしていることに気が着きます。新約聖書は、長老が群れに教えたり、霊的に導いたり、霊的な糧を与えたり、牧会したりする責任について方向性を示しています。長老は、信頼に足る人物でなければならないことはすでに学びました。長老は信仰について知識を持っていて、信仰について効果的に意志伝達ができる(教えることができる)人でなければなりません。教えと監督に忠実な長老は、特に敬意を払われるべきでした。群れに対して、福音の内容と日常生活への適用方法を理解させることは、長老の中心的な責任であったことは明確です。しかし長老の働きには、労苦や権威がどの程度ともなっていたのでしょうか。教えることができたのは、長老だけだったのでしょうか。私たちは汽灰螢鵐硲隠粥В横兇亡悗靴董⊇顕颪砲いてすべてのクリスチャンが「教え」ることができるはずだと理解しました。それでは、すべてのクリスチャンが、長老と同じレベルの「教師」だったのでしょうか。もちろん違います。これは、教えるという行為の頻度やレベルの問題なのです。同じことがにせ教師を戒めたり、信仰を否定するような生き方をしているクリスチャンを戒めることについても言えます。

たとえば、以下の箇所の教えのレベルに関して考えてみてください。汽灰螢鵐硲隠粥В横兇ら、女性であっても集会の中で、2、3分間の短編の教えならすることができると思います。こんにちの教会で、このような「分かち合い」の場でのちょっとした教えに文句をつける人はまずいないでしょう。このような教えは、もっとも初歩的なレベルの教えと位置づけられます。逆に、たとえばキリストの神性という問題に関して長老たちが決定する場合、もっとも高度なレベルの教えと位置づけられます。もし教会内で、このような高度な問題に関して論議が起こった場合、長老たちは教会に対して、キリストの神性について聖書がどう語っているかを教えることになるでしょう。多くの教会では、みことばに逆らっている兄弟姉妹を戒めるのも長老たちの役割です。ある場合には、長老たちは、逆らう者を教会の交わりから断絶する役目も果たさなければなりません。これは、パウロが汽謄皀藤押В隠院腺隠欧如◆峩気┐燭蠱砲鮖拉曚垢襪海函廚箸いΩ斥佞砲茲辰峠?に禁じている類の事柄です。この両極端なレベルの定義をもとに、次の各条件について考察してみましょう。


1.女性が5分間程度の教えをすることは可能でしょうか。

2.女性は15分間の教えをすることはどうでしょうか(説教の長さに近い)。

3.長老ではない男性が、15分間教えるというのはどうでしょう(この場合もう、長老の教えの働きと変わらないのではないでしょうか)。

4.ある女性が3週間ごとに、10分間の教えをしてほしいと依頼されたらどうでしょう(定期的な教えの奉仕)。

5.女性宣教師(パウロの同労者の誰か、プリスカを意味します)が、30分間、異邦人伝道やパウロが敵対者たちとどのように対峙したかについて語るよう頼まれたらどうでしょうか(この長さの「使徒の働き」に関する説教ということ)。

6.上記の女性宣教師は、8週間にわたり日曜学校の奉仕をすることはできるでしょうか(日曜学校の女性講師)。

7.パウロと一緒に働いたことのある女性が、長老たちからパウロが(かたくなな人たちとの)論争の中でどういうことを語ったかを証ししてくださいと頼まれたらどうなるでしょうか(これは、長老による訓戒の働きに加わることを意味するのではないでしょうか)。

8.上記の女性が、定期的にパウロの思想について語るよう頼まれたとしたら、その依頼を受けることはできるのでしょうか(その女性をパウロ説教学の講師にすること)。


この箇条書きが、人為的に学問的な内容にしてあることは勿論のことです。しかし、白黒はっきりしている内容だけでなく、いわゆる「灰色」の領域を取り扱うことで、どの程度までは許容でき、どの程度は禁止しなければならないかを示したいのです。

中略