ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「集会における女性たち」の参考文献(その4)

事例3

状況:

女性の≪教師≫が、教会の近所に住んでいるということで、日曜朝の大人向け聖書クラスを担当してほしいと依頼されています。その聖書クラスでは、キリスト教の教義を学んでおり、この教会の中心的な教えの場となっています。


疑問:彼女は、この大人向け聖書クラスを教える奉仕を、引き受けてよいのでしょうか。


ガイドライン

1.聖書の教え

私の判断では、信仰に関して、定期的に公式の教義を神の民に教える役割は、長老に属するものです。これは汽謄皀藤押В隠欧猟蟲舛謀?討呂泙襪箸海蹐痢権威を伴う教えです。すでに説明したように、この女性教師が招聘された奉仕は、長老以外の人間が担当してはならないものです。もし力量のある長老がいるのであれば、彼らこそ、この教えの奉仕を担うべき人たちです。私はとしては、この状況に対してガイドライン1a(=聖書はその活動の禁止を明言している)を適用します。ガイドライン2a(=その活動は、実質的に聖書的な基準あるいは、聖書的な動機を覆しているにもかかわらず、定義づけの問題によって批評を逃れている)や3a(=その活動は、誤解されやすい、あるいは、混乱やつまずきを起こすと認識されている)も当てはまります。


2&3.現実と定義および認識

この事例は次の要素が加わることで、さらに複雑になるかもしれません。教えを担当する資格のある長老がいないと仮定しましょう。その場合、誰がこの会衆を教えればよいのでしょうか。長老たちは、長老ではない教師を任命して、監督することにするべきかもしれません。注意深く監督をすれば、長老たちは実際に自分たちが教えないとしても、長老としての責務を果たせるかもしれません。その場合、その非長老の教師が、長老たちの指導の下に教えの奉仕をするという点が大切になります。その条件下にあるなら、任命される教師の性別はどちらでも構わないでしょう。女性であっても、男性であっても、長老の役割を害することはないはずです。この事例のように、混乱や不確かさを内包した状況は、細心の注意と明確な論理をもって取り扱う必要があります。

(中略)

たとえば毛沢東政権下の中国や、アミン大統領政権下のウガンダのように、教会内に長老が存在しない状況における、女性宣教師や長老ではない男女のケースも考察すべきでしょう。そのような状況の場合、プリスカとアクラがアポロを教えた状況と良く似ています(使徒18:24~26)。プリスカはアポロを教える働きに加わっていましたが、長老の役割を公に果たしていたわけではありません。教会に構造的な欠落がある状況においても、御言葉は教えられるべきです。ただしその場合は、注意が必要です。特殊な決断であり、実行であることをはっきりと理解してもらう必要があります(ガイドライン3)。また、教会の構造が誤った形で構築されてしまわないようにしなければなりません。聖書的な構造になるよう、導く必要があります。私は、プリスカが傑出した長老だったと思っています。彼女の賜物は、無駄にすべきではありません。しかしプリスカが、パウロ直系の教会の長老ではなかったことは確かです!現代の教会は、全教会員の賜物を発展させ、用いなければなりません。ただし、聖書的なやり方でです。

結論を言いますと、宣教師をしている男女は、是が非でも信仰を教えるべきです。彼らの教えの活動が、長老の役割に取って代わってはなりません。宣教師たちの働きの実として、強固な聖書的教会が、自立した形で(他の団体から支配されない形で)設立されるべきです。教会がそのように設立されるなら、外部の人間である宣教師の教えの役割は、性別にかかわらず功を奏します。地域教会の長老たちが、自分たちの群れのために教えの役割を担います。宣教師による開拓の状態から、宣教師不在の自立した教会への移行の時期には、混乱を避けるために、奉仕に関して思慮深い定義づけが求められるでしょう。


つづく