ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

24人の長老(後半)

次に湧いてくるのは、この24人の長老が人間なのか、それとも天使なのかという疑問です。さて、どうなのでしょうか。


*冠をかぶるのは、人間だけです

*白い衣を着るのは、人間だけです

*座に座るのは、人間だけです(神とサタンは除く)

*長老になるのは、人間だけです



黙示録4:4の「冠」に当たるギリシャ語は、ステファノスです。ステファノスは勝利の冠であって、黙示録19:12でキリストがかぶるような王冠ではありません。天使は勝利の冠をかぶりません。というのは、天使たちは地上において命に関わる闘いを経験することがないので、勝利の冠を得る根拠がないのです。24人の長老が人間であることのもう一つの証拠として、黙示録5:9があります。こう書かれています。


彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い・・・」


最後の部分で、「贖い」という言葉が使われています。このため多くの方々が、24人の長老は贖われた人間だと考えています。しかし、中には贖われた人間ではないと言う方々もいます。

(中略)

この箇所で歌を歌っているのは24人の長老ですが、「人々を贖い」と他人染みた表現をしていることから、自分たちのことではなく別人のことを歌っているのだと考える方々がいます。しかし、出エジプト15:13、16~17を見るなら、歌っている人々が自分たちのことをあたかも他者のように表現することがあることをおわかりいただけると思います。


24人の長老が天使でははないことの証拠はまだあります。黙示録7:11はこう述べています。「御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して」。この箇所によれば、すべての天使は「長老たちの回りに立って」います。すべての天使は24人の長老の回りに立っているのですから、24人の長老が天使であるということはありえません。この節は天使と長老たちを区別しているのですから、黙示録の著者は長老たちが天使ではないことを知っていたということです。このように黙示録7:11が、24人の長老は天使ではないことを証明しています。


(中略)


最後に、2人の天使たちはなぜヨハネを御霊によって別の場所へ連れて行ったのでしょうか(17:3、21:10)。それは、御使いたちが霊だからです(ヘブル1:7)。しかし24人の長老たちは、一度もヨハネを御霊によって別の場所に連れて行きませんでした。それは彼らが人間だからです。それでは、長老とは一体何でしょうか。長老とは、年をとっている人のことではありませんか。天使には、年をとるという営みはありません。彼らはみな同じ年齢だからです。人間だけが、罪のゆえに年をとります。また罪のゆえに死ぬのです。また長老とは知恵のある人物ですが、御使いは常に完全な知恵を持っています。そして長老とは、治める人です。聖書は、「私たちは御使いをもさばくべき者だ」と言っているではありませんか(汽灰螢鵐硲供В魁法どのみち24人の長老が天使であることはありえません。というのは、長老と呼ばれるのは人間だけだからです。


24人の長老は天使ではなく、贖われた人間であることがわかります。また24人の長老の存在が、携挙が艱難期の前に起こることを証明するのに不可欠であることがわかります。24人の長老が黙示録の最初の場面で登場していることは、その点で極めて重要だといえます。ヨハネは天に上り、御座と終わりの時の出来事を見ました(4:1)。彼が24人の長老を見たのは、この最初の場面なのです。


イザヤやエゼキエルの幻には、御座と4つの生き物しか登場しません。24人の長老は登場しないのです。もし24人の長老が天使であるなら、イザヤやエゼキエルの幻にも24人の長老が登場してしかるべきです。重要なのは、彼らが新約聖書には登場していて、旧約聖書には登場していないということです。もし24人の長老が教会を代表しているのであれば、この点の説明がつきます。イスラエルと教会は別の存在だからです。教会は新約の聖徒によって構成されており、ペンテコステから携挙に至るまでのすべてのクリスチャンから成っています。教会の聖徒のよみがえりは携挙の際に起こります。一方、旧約の聖徒のよみがえりが起こるのは1335日目で、艱難期が終了してから75日後のことです(ダニエル12:2、12~13)。24人の長老が贖われた人間であることはすでに証明しましたから、残された選択は、彼らが教会を代表しているということだけです。24人の長老が教会の代表であるとすれば、それは携挙が艱難期の前に起こることの強力な支持となります。


*24人の長老は座についており、白い衣を着、金の冠をかぶっています。これらの報いは、キリストの裁きの座において教会に約束されたものです。このキリストの裁きの座は、携挙の際のキリストの再臨に伴って行われます(競謄皀藤粥В検↓汽撻謄蹌機В粥法


*24人の長老は贖いの歌を歌います。歌の主体者が自分たちではないかのような表現がありますが、そのような表現はありえるものです(出エジプト記15:13、16~17)。


(中略)

*24人の長老は、すべての御使いと区別されています(黙7:11)。


*24人の長老は、ヨハネが天に上がったあとにのみ黙示録に登場し(黙示録4:1~2)、イザヤやエゼキエルが見た天の幻には登場しませんでした。


*24人の長老は、天使とは掛け離れた存在です。


*24人の長老が御使いである可能性はありません。というのは、教会は御使いすらも裁く立場にあるからです(汽灰螢鵐硲供В魁法



こういうわけで、24人の長老が、艱難期以前に天に存在する教会であることは明白です。このことは、携挙が艱難期の前でなければならいことを意味しています。なぜなら黙示録4:4で24人の長老がすでに天にいるわけですが、艱難期が始まるのは黙示録6章だからです。教会が艱難期に地上にいないことを示すその他の証として次の事項が挙げられます。艱難期は「ヤコブの苦難の時」です(エレミヤ30:7、ヤコブイスラエルであって、教会の苦難の時ではない)。ダニエルの70週の預言はイスラエルのためであること(ダニエル9:24、「あなたの民」=イスラエル)。またその70週は、艱難期そのものである70週目を含んでいること。これらから、艱難期を忍耐するのは、教会ではなくイスラエルであることがわかります。教会は今日的な意味の艱難に召されていますが(黙示録2:10)、イスラエルは艱難期に対する警告を受けています(ダニエル12:1「かつてなかったほどの苦難の時」、マタイ24:21)。教会に対しては、艱難期にまつわる警告は語られていません。教会には、「聖徒が世界をさばくようになる」という約束が与えられています(汽灰螢鵐硲供В押法また、「御使いをもさばくべき者」だとも語られています(汽灰螢鵐硲供В魁法


黙示録20:4は、「私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた」と述べています。これは恐らく、24人の長老たちに関する描写です。もし教会が世界と御使いを裁くようになると約束されており、黙示録20:4がそのことの言い換えであるならば、それは取りも直さず、24人の長老が教会を代表していることを立証しているのです。24人の長老は、携挙が艱難期の前であることを指し示しているのです。