ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

使徒・預言者はこんにち存在しないのか?(後半)

●現代にはいるのか

では、こんにち使徒預言者は存在するのでしょうか。こんにちも使徒預言者が存在すると述べている聖書箇所はあるのでしょうか。


ひとつの聖句だけで、こんにち使徒預言者が存在することを証明するのは不可能です。しかしいくつかの箇所を総合的に考えることで、聖書が何を示唆しているかが浮き上がってきます。


◎エペソ人への手紙

エペソ人への手紙は、こんにちも、いわゆる「五役者」が存在することを示唆しています。


エペソ書は、前半(1章~3章)と後半(4章~6章)とでは、書かれているテーマや目的がはっきり分かれています。


前半には「クリスチャン/教会が霊的にどれほど恵まれた立場に置かれているか」が、後半には「クリスチャン/教会が実践すべきこと」が書かれています。


また前半には命令文は書かれていませんが、後半には35の命令文(勧めの言葉)が書かれています。


前半では、「すべての霊的祝福」「御国を受け継ぐ者」「教会には万物を満たす方が満ちている」「良い行いが備えられている」「クリスチャンは神の家族、主の聖なる宮、神の住まい」「共同相続者」「約束に預かる」「奥義の実現」「大胆に神に近づける」「人知を超えたキリストの愛」などが語られ、教会がどれほど恵まれているかをパウロは切々と語っています。


しかし後半は「さて」ではじまり、1:1でいきなり「あなたがたに・・・勧めます」と述べ、もはや説明は終わり、「実践の勧め」にテーマが移行しています。教会や個人の信者がどうあるべきか、また逆に何をしてはならないかが書き連ねてあります。


前半は天の事柄ではじまっているのに対し、後半は教会内、家庭内の原則やこの世での霊的戦いなど、目の前の実践的なことであふれています。(ご自分でも読み、ぜひ確かめてみてください。)


エペソ4:11の「使徒預言者、伝道者、牧師、教師」に関する御言葉は、この後半に含まれています。つまり教会が将来にわたって実践すべきことの一つなのです。


であるならば、使徒預言者が1世紀だけでなくなってしまうものである、とは考えにくいということです。自分が死んだら存在しなくなるものについて、パウロは実践項目として手紙に書く必要があったでしょうか。


前回の日記(http://blogs.yahoo.co.jp/psalm8934/20190694.html)でも説明している通り、4:11の使徒預言者には、原典において定冠詞がついていません。このことから言えることは、4:11の使徒預言者についてパウロが述べるとき、それは過去に存在していた特定の使徒預言者のことではないということは確かです。定冠詞がついていないということは、限定されていない不特定な使徒預言者のことを語っているのです。


そういう訳で、はっきりと否定する記述がない限り、4:11の5つの賜物はこんにちも存続していると考えるのが聖書解釈の原則として適切だと思います。

(はっきりと否定する記述がないことはすでに検証済みですが。)



◎その他のヒント


ヒント1

使徒預言者がこんにち存在すると考えうるもう一つの理由として、「にせ預言者」に関するイエスの言葉があります。


マタイ24:11、24やマルコ13:22を見ると、「にせ預言者」は世の終わりが近づいたときに現われることがわかります。


先ほど「にせ使徒」と本物の使徒の絡みでも述べたように、本物の預言者が存在する状況だからこそ、にせ預言者を見分ける必要性が生じます。ですから上記の聖句は、終末まで預言者が存在することを前提として語られているのです。


世の終わりまで預言者が存在するのであれば、使徒もまた存在すると考えられるのではないでしょうか。



ヒント2

汽撻謄蹌機В院腺瓦砲蓮◆崑臻匱圓現れる」まで(=再臨まで)、長老たちが教会を牧するべきだとペテロは述べています。長老は、使徒によって任命される働き人です(使徒14:21~23、テトス1:5)。ということは、使徒も再臨までは存在するはずなのです。



●まとめ

これまで述べてきたことを総合的に判断して、私は、こんにちでも使徒預言者は存在すると考えています。