より優れた役割を選択する
普通この箇所は、表面的な奉仕に捕らわれている人と内なる礼拝に向いている人との比較という視点で解釈されます。
その見方からも得るものはあると思いますが、今日は別の方向から見てみたいと思います。
この箇所に関して、新鮮な見方をするために、歴的な背景を述べさせてください。
イエスが地上におられた時代の(イスラエルの)家屋は、男性のスペースと女性のスペースに分けられていました。キッチンは女性だけのスペースでした。(例えばエチオピアなどのいくつかの国では、こんにちでもそのようになっています。)ですから、男たちはキッチンに入ることはできません。
広間は男たちのスペースでしたから、女性が男たちと広間にいることは、適切とは見なされませんでした。はしたないことだったのです。
男と女が共有できたのは、寝室と、屋外の子供たちの遊び場だけでした。
さて、思い描いてください。主イエスがいま、十二弟子と一緒に家の中に入っていこうとしています。マルタがイエスと弟子たちを、男性のスペースである広間に案内しています。イエスは食事の用意は頼んでいません。それよりも御言葉を教えたいのです。すぐさまイエスは語り始めます。
十二弟子がイエスの周りに集まり、足元に座ります。けれども、見慣れない光景がありました。女性もひとり、その中に混じっていたのです。彼女もまた、イエスの足元に張り付いていました。
マリヤは目には見えない境界線を越えていたのです。社会的な意味で二つの異なる空間を作り出していた境界線を、マリヤは消し去ってしまったのです。一つは男性の空間。もう一つは弟子たちの空間でした。どうして境界線の説明が重要かと言えば、当時、ラビたちは、男しか弟子にしなかったからです。イエスは例外ということになります。主は女性たちも、弟子として歓迎したからです。
今度はキッチンに行って、マルタの様子を見てみましょう。彼女の内には、一つの思いがありました。彼女は、イエスを丁重にもてなしたいと思っていました。イエスと十二弟子のために、手の込んだ料理を用意していました。マルタは料理と食器の準備のために、キッチンであくせく働いていました。
ところがだんだんいらだってきました。妹のマリヤが全然手伝わないからです。それどころか、彼女は、まるで男の弟子のように、広間でイエスの足元に座っているではありませんか。言い換えるなら、マリヤは男のように振る舞っていたわけです。
マルタはキッチンの中で働き続けました。そのうちマリヤも、立ち上がって手伝いに来るだろうと。マルタは手で汗をぬぐいます。もう我慢できません。マルタは嵐のごとく広間に突進してゆき、イエスに訴えました。「マリヤが私を手伝いに来ないのです。どうにかしてください!手伝うように言ってくださいませんか!」
マルタが意味していたことは、こうです。「私の妹は、広間で男のように振舞っています。本当はキッチンで、私の手伝いをすべきなのに!」
マルタがそう訴えている最中も、マリヤは黙っていました。自己弁護しようとはしません。弁護を主にゆだねた結果、主が代わりに弁護してくださいました。
主は、マルタに対して優しく応答しました。「マルタ、マルタ。あなたはいろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことは・・・一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。(それは、わたしの弟子になることです。)」
主は言われました。「必要なことは、・・・一つだけです」「彼女からそれを取り上げてはいけません。」
主は、本当に必要な一つのこととは、従来言われてきたとおり、主を知ることだと言っておられるようです。知ることを通して、知的な奉仕が生まれてきます。その奉仕は、愛や友情や交わりから生まれてくるものです。
人生において最も重要なことは、主を知ることです。そしてそれには、時間をかけて主の足元にい続けることが必要です。ところがベタニヤでは、それとはまた別のことが起きています。
その見方からも得るものはあると思いますが、今日は別の方向から見てみたいと思います。
この箇所に関して、新鮮な見方をするために、歴的な背景を述べさせてください。
イエスが地上におられた時代の(イスラエルの)家屋は、男性のスペースと女性のスペースに分けられていました。キッチンは女性だけのスペースでした。(例えばエチオピアなどのいくつかの国では、こんにちでもそのようになっています。)ですから、男たちはキッチンに入ることはできません。
広間は男たちのスペースでしたから、女性が男たちと広間にいることは、適切とは見なされませんでした。はしたないことだったのです。
男と女が共有できたのは、寝室と、屋外の子供たちの遊び場だけでした。
さて、思い描いてください。主イエスがいま、十二弟子と一緒に家の中に入っていこうとしています。マルタがイエスと弟子たちを、男性のスペースである広間に案内しています。イエスは食事の用意は頼んでいません。それよりも御言葉を教えたいのです。すぐさまイエスは語り始めます。
十二弟子がイエスの周りに集まり、足元に座ります。けれども、見慣れない光景がありました。女性もひとり、その中に混じっていたのです。彼女もまた、イエスの足元に張り付いていました。
マリヤは目には見えない境界線を越えていたのです。社会的な意味で二つの異なる空間を作り出していた境界線を、マリヤは消し去ってしまったのです。一つは男性の空間。もう一つは弟子たちの空間でした。どうして境界線の説明が重要かと言えば、当時、ラビたちは、男しか弟子にしなかったからです。イエスは例外ということになります。主は女性たちも、弟子として歓迎したからです。
今度はキッチンに行って、マルタの様子を見てみましょう。彼女の内には、一つの思いがありました。彼女は、イエスを丁重にもてなしたいと思っていました。イエスと十二弟子のために、手の込んだ料理を用意していました。マルタは料理と食器の準備のために、キッチンであくせく働いていました。
ところがだんだんいらだってきました。妹のマリヤが全然手伝わないからです。それどころか、彼女は、まるで男の弟子のように、広間でイエスの足元に座っているではありませんか。言い換えるなら、マリヤは男のように振る舞っていたわけです。
マルタはキッチンの中で働き続けました。そのうちマリヤも、立ち上がって手伝いに来るだろうと。マルタは手で汗をぬぐいます。もう我慢できません。マルタは嵐のごとく広間に突進してゆき、イエスに訴えました。「マリヤが私を手伝いに来ないのです。どうにかしてください!手伝うように言ってくださいませんか!」
マルタが意味していたことは、こうです。「私の妹は、広間で男のように振舞っています。本当はキッチンで、私の手伝いをすべきなのに!」
マルタがそう訴えている最中も、マリヤは黙っていました。自己弁護しようとはしません。弁護を主にゆだねた結果、主が代わりに弁護してくださいました。
主は、マルタに対して優しく応答しました。「マルタ、マルタ。あなたはいろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことは・・・一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。(それは、わたしの弟子になることです。)」
主は言われました。「必要なことは、・・・一つだけです」「彼女からそれを取り上げてはいけません。」
主は、本当に必要な一つのこととは、従来言われてきたとおり、主を知ることだと言っておられるようです。知ることを通して、知的な奉仕が生まれてきます。その奉仕は、愛や友情や交わりから生まれてくるものです。
人生において最も重要なことは、主を知ることです。そしてそれには、時間をかけて主の足元にい続けることが必要です。ところがベタニヤでは、それとはまた別のことが起きています。