ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「ヨハネ3:16は福音か?」

以下は、私たちの教会の学びで使った資料です。皆様にもおすそ分けさせてください。
 
ヨハネ3:16は福音か?」 デイヴィッド・ポーソン著
 
以下の翻訳は、上記の本からの抜粋です。とても面白い内容で、まず日本ではこういう本にお目にかかれないと思い、翻訳しました。完全訳ではなく部分訳です。
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過去1,2年の間に、私は、私たちが福音を語る際、神の愛に焦点を当てるということは大きな間違いであると痛感するようになりました。このことは、読者のみなさんにはいささか衝撃的に思えるでしょう。しかしそれは、みなさんが私の説明を理解するまでのことです。私たちは未信者に、神はすべての人を愛していると伝えてきました。だから神はあなたのことも愛しているのですと。・・・しかし実のところ、使徒たちがそのように伝道したことは一度もないのです!
 
特にやっかいなのは、約20年前に登場した「神の愛は無条件です」というフレーズです。私は、ある大きなクリスチャンの集会で、聴衆に向かって質問をしたことがあります。「神の愛が無条件です」という表現を耳にしたことがありますかと。すると聴衆の4分の3以上が、聞いたことがあると応答しました。次に私は、いま挙手した方々の中で、聖書の中に「神の愛が無条件です」というフレーズを見たことがある方はいますかと尋ねました。もちろん一人も手を挙げませんでした。では、私たちはこの「神の愛は無条件」という概念をどこから手に入れたのでしょうか。このフレーズこそ、過ちの最大の原因なのです。
 
未信者に対して神の愛は無条件であると語った場合、それは神が、現状のままで彼らを愛しているという意味になります。ということは、神は未信者たちを裁いていないということになります。裁いていないので、現状のまま神のもとに来なさいということです。この場合「悔い改めよ」という言葉は、どうなってしまうのでしょうか。「悔い改めよ」とは、実のところ「変わりなさい」という意味ではありませんか。
 
神のもとに来るための初めの一歩は、変わること、つまり悔い改めることなのです。しかし「神の愛は無条件です」というフレーズは、「現状のまま来なさい」を意味しています。私の内側でこの矛盾が拡大ました。そのため私は、神の愛を説くことにおいて根本的な問題を感じるようになりました。未信者に対して「無条件に」神の愛を説くことは、神のみこころにかなっているのでしょうか。
 
そこで私は、個人的に勉強してみました。すると神の愛に関して、聖書からいくつもの驚きの真実を発見したのです。最初の驚きは、聖書の中には、神の愛に関する言及が、思う以上に少ないということです。みなさんは、聖書全体が神の愛について書いているという印象を持っていると思います。しかしこのテーマを掘り下げて学んでみると、神の愛に関して直接的かつ明確に言及している箇所は、聖書中に35節しかありません。聖書は全部で何節あるかご存知ですか。35000節もあるのです!ですから神の愛に関して述べている節は、1000分の1しかないということです。これは私にとっては驚きでした。聖書は神の愛で満ちていると思っていたからです。
 
第2の驚きは、これよりも大きなものでした。神の愛について書かれている言葉はすべて、すでに神によって奴隷から解放された人々に対して告げられているといことです。エジプトのパロのもとでの奴隷、もしくはサタンの支配下における罪の奴隷のどちらに関してもそうなのです。神によって救い出された人々だけが、神の愛について語り合っています。旧約聖書ではユダヤ人だけが自分たちに対する神の愛を語っており、新約ではクリスチャンだけがクリスチャンに対する神の愛を語っています。ですから神の愛は、内部的なテーマということになります。このわけは、神の愛というのは、神によってあがなわれた人にしか理解できないからだと思います。もっと言うと、イエスも、またいかなる使徒も、神の愛について公の場では一切説教していません。
 
次に言うことは、私が教えさせていただくすべての人々にお願いしていることですが、ご自分の聖書で確認することなしに、私の言葉を真理として受け入れないでいただきたいのです。私の言っていることが正しいかどうか、必ず確認してください。ですから今お伝えしていることも、すべて確認してください。しかし私としては、イエスが、あるいは使徒の中の誰かが、未信者に対して神の愛を説いたのを発見したことは一度もありません。この事実に最も驚かされるのは、使徒の働きにおいてです。この書は、紛れもなく初代教会における伝道と教会開拓の記録です。しかし使徒の働き全体において、神の愛について述べられている箇所は一節もありません。彼らは、神の愛については語らなかったのです。彼らの伝道は、そういう方法では行われなかったのです。彼らの教会開拓の方法は、そういうやり方ではありませんでした。私たちは、単に彼らもそうしていただろうと、未確認のまま思い込んでいただけなのです。
 
そこで私は、聖書からのこれらの情報をまとめるようになり、次の結論に至りました。未信者に対して神の愛を語ることは、イエスが命じている伝道方法ではない、ということです。(中略)「神はあなたを愛しています」と公の場で言うと、「だったらなぜ神はこの世界に苦しみを許しているのですか。神が死後の世界で苦しみを与えるなどいうことを、なぜあなたは言えるのですか」という質問がまっ先に返ってきます。イエスは、「豚の前に真珠を投げてはいけません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょう」と言っています(マタイ7:6)。私は、公に示すには余りにも尊いものというのが存在すると思うのです。
あるテレビ番組で、私は偶然、次のようなことを言いました。「私は、神がすべての人を愛していると述べている節は聖書の中には一節もないと思います」と。その晩から延々と視聴者からの応答が寄せられ続けました。それらは決まって、「ヨハネ3:16はどうですか」というものでした。この本において、ヨハネ3:16に焦点を合わせて学ぶ理由はそこにあります。この一つの節が、「神の愛の福音」を正当化しているからです。
 
 *ちなみに、「使徒の働き」に関して自分で調べてみたところ、「愛」という言葉自体が1度も使われていないことがわかりました。(確認は、欽定訳で行いました。)
 
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