ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

こんにちの救いの概念は聖書的か?(後半)

●聖書の救いは一方的
 
使徒10:44
ペテロが福音を語っている途中でコルネリオたち全員が救われています。受け入れの祈りなど一切していません。伝道者による救いの招きすらない状態で、いつの間にか全員が救われています。
 
福音のメッセージを通して彼らの心に聖霊が働き、いつの間にか信仰が与えられ、話を聞いている最中に救われたのです。彼らは何もせずただ聞いていただけですが、聖霊のほうから一方的にくだってきて、彼ら全員を救ってしまいました。コルネリオたちは、ただ与えられるものを受け入れたに過ぎません。
 
 
ヨハネ5:21
「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」
 
「死人」:死人には、意識がありません。聞くことも、理解することも、信じることもできません。何かを選んだり、決断することもできません。実際、自分が死んでいることすらわかりません。救われたいと願うこともありません。死人が生きるためには、自分以外の別の誰かによって、いのちを与えてもらわなければなりません。いのちを受けるにあたり、100%神に依存しています。神が何かをしない限り、いつまでたっても死人は死人のままです。何の変化も起こりません。神が絶対的主権をもって死人にいのちを与えるのです。(実例:ラザロ)
 
「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように」:この「ように」に当たるギリシャ語ホスパーは、方法を表す言葉です。ですから父なる神が死人を生き返らせるのと同じやり方で、イエスもご自分が望む者にいのちを与るのです。ということは、人が救われるにあたり、すべての主権はイエスにあるということです。人が望むからではありません。人は救いを望むことができないのです。イエスが望むことで初めて、人にいのちが与えられます。イエスが望まなければ、誰一人救いを受けられないということです。救いを受けるにあたり、人は100%イエスに依存しているというのがこの御言葉の意味するところです。(エペソ2:1,5参照。救われていないとき、すべての人は霊的な死人です。) 
 
 
ローマ9:11
「その子たちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いによらず、召してくださる方によるようにと」
 
「行い」:人間の主権を象徴するもの
 
ヤコブエサウも生まれてもいないのですから、選びの主権は100%神にありました。この神の主権による選びがそのまま個々人の救いに適用されます(ローマ8:30、エペソ1:4~7)。
 
 
使徒13:48
「永遠のいのちに定められられていた人たちは、みな、信仰に入った。」
 
「みな、信仰に入った」=(救いに定められていた人は)例外なく全員信じた
 
→信じるに至った決定的な要因が、人の意志や感性、決断によらず、神の一方的な定めにあったことを表しています。
 
 
●結論
新生、入信、救いは、「誰でもできる」ではなく「誰にもできない」と聖書は教えています。誰にもできないので神がやったと(ルカ18:26~27)。救いは、神の側に決定権のある一方的な恵みによる出来事です。
 
人は、神の恵みによる介入なしに救われることはありません。イエスを信じる能力が根本的にないからです。人の主導で決断したり、選んだり、信じることによって救われるのではありません。神の選びの計画に基づいて聖霊が声なき声によって人を招き、人の心を動かし、人がそれに応じることで救われるのです。
 
救いは「自分から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)
 
 
*長い文章をお読みいただきありがとうございます。
 誠に申し訳ありませんが、コメントへの応答はいたしません。
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