ダビデの日記

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「信仰による義認の再解釈」に関する疑問 その1

 
 この記事は、クリスチャン・トゥデイ掲載のコラム「福音の回復(45)誰が救われるの?信仰による義認、予定説」(前編後編)に関するものです。
 
 このコラムでは「信仰による義認の再解釈」という大胆な試みがなされているため、このコラムの内容の妥当性について検証しようと思います。 
 
 コラムニストの三谷氏は、前編の初めで次のように述べています。
 
 
 しかし、従来の「信仰による義認」では、イエス・キリストを信じる信仰の告白が「救い」に先行するとされてきた。
 
 人は「信仰」が原因で義とされ、救われるとされてきた。そうなると、信仰の告白ができない障がい者は救われる対象から外されてしまう。
 
 乳幼児が死んだなら、彼らは信仰の告白ができなかったので救われなかったという話になる。ましてや、キリストのことを聞いたことのない人は誰も救われないことになる。
 
 
 この記述には、「信仰による義認」の概念に対する偏見が含まれている可能性が伺えます。
 
 従来の「信仰による義認」の概念、言い換えると、伝統的な福音主義神学では、乳幼児が死んだ場合、救われないと考えているでしょうか?
 
 まずは、信仰義認の際の告白と救いについて、聖書がどう述べているか見てみましょう。
 
 
告白と救い
 
ローマ10:910
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
 
 
 この信仰義認の箇所で「告白する」と訳されているのは、ホモロゲオーというギリシャ語です。
 
 ホモロゲオーは、①同意する、②告白する、③宣言する、④褒め称える、と訳されます。
 
 確かに新約聖書では、多くの場合「告白する」と訳されており、特に10節では「口で」(ギ:ストマ)という修飾語句もついています。
 
 しかし、新約聖書の他の箇所を見ると、救いを受ける際に必ずしも言葉に出す必要がないことがわかります。
 
 
使徒8:3438
宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」35 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」38 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
 
使徒10:4448 
ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。45 割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。46 彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。47 「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」48 そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。彼らは、ペテロに数日間滞在するように願った。
 
 
 上記の箇所では、どちらの場合も、いわゆる信仰告白をしていません。しかし、明らかに救いが起きています。
 
 特にコルネリオとその家族の場合、ペテロが話している最中に聖霊を受けて救われています。
 
 つまり、新約聖書で言うところの「告白」というのは、必ずしも言葉で語ることを必要としないのです。
 
 これを乳幼児や障がい者に適用するなら、言葉で告白できない状態にあっても救われることは可能です。
 
 
幼児の救い
 
 ゴスペル・コウアリションという保守的福音主義ミニストリー団体は、「幼児はみな天国に行くのか?」という論考で次のように結論づけています。
 
 
 それゆえ私は、幼くして亡くなった人たちの救いを信じます。私はその人たちの救いを肯定します。
 
 彼らに罪がなかったからでも、彼らが赦しに値する人間だったからでもなく、神が主権をもって彼らを永遠のいのちに選んでおられたからです。
 
 
 この論考は、8つのポイントを挙げて幼児が亡くなった場合に救われるか否かを論じています。
 
 その中で筆者は、幼児の救いを肯定する論拠の一つとして2サムエル記12:1523を挙げており、特に23節のダビデの言葉に注目しています。
 
 
私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。
 
 
「私はあの子のところに行く」というのは、死後、ダビデ王が最終的に天国に行くことを意味します。
 
 この言葉を額面通りに受け取ると、ダビデ王は死産した子が天国に行ったと考えていたことになります。
 
 また筆者は、2コリント5:10、1コリント6:9~10、黙示録20:11~12を挙げ、神の裁きは、地上における行いに基づいていると述べています。
 
 
2コリント5:10
なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
 
黙示録20:11~12
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
 
 
 これらの箇所を根拠に、筆者はこう述べています。
 
 つまり、永遠の裁きは、つねに神の啓示に対する意図的な拒絶や故意の不従順に基づいています。
 
 幼児は、このどちらかに該当するでしょうか?(訳注:答えはノー)。これ以外の要件に基づく裁きは、聖書のどこにも書かれていません。
 
 それゆえ、幼くして亡くなった人たちは救われているのです。なぜなら、その子たちは神の裁きに該当する要件を満たしていないからです。
 
 
 また筆者は、エレミヤ1:5やルカ1:15を根拠に、「少なくとも一部の幼児は、子宮内で新生している」と述べています。
 
 
エレミヤ1:5
わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。
 
ルカ1:15
彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、
 
 
 バプテスマのヨハネは子宮にいたときから聖霊に満たされていた、とルカは書いています。

 聖霊に満たされていたのですから、ヨハネは胎児の段階で救われていたことになります(ローマ8:9)。

ローマ8:9
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。


障がい者の救い
 
 次に、障がい者の救いについて見てみましょう。
 
 ゴット・クエスチョンという改革派神学に立つミニストリー団体が、障がい者の救いについて論じています。
 
 
 上記の論考では、2サムエル記1223に基づいて、精神的な障がい者ダビデの子どもと同じ要件に該当するとしています。
 
 しかし論考は、障がい者が救われることを断言してはいません。
 
 ただし、神の憐み深い性質を考慮すると、精神的な障がい者が救われることは、その性質に一致するように思えると述べています。
 
 
●まとめ
 
 三谷氏は、従来の信仰義認に関して、偏見を持っている可能性が高いと思われます。
 
 伝統的福音主義神学は、幼児や障がい者の救いを否定していません。
 
 今後もさらに、三谷氏のコラムを検証していきます。