ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

パウロが真に云わんとしたこと その7(NPP検証論考)

 
 その6でガザーコール博士は、義と信仰について解説しました。
 
 義とは、「律法のすべての命令を全うした者として神の前で認められる」ことであり、
 
 信仰は、神の「語り掛けに対する応答として主に信頼する」ことです。
 
 この記事では、「律法の行い」についての解説がなされます。
 
 以下は、Christianity Today2007810日に掲載されたWhat Did Paul Really Mean?(著者:サイモン・ガザーコール)の翻訳です。
 
引用元
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.信仰は、神が言われたことに対する信頼であると共に、神の性質に対する信頼でもあります。
 
 アブラハムは、「神には約束されたことを成就する力があること」を信じました。
 
 聖書的な信仰は、信仰の対象である神を鏡のように映し出します。
 
 日常生活の中で、私たちは様々な人の様々な信仰を目にします。
 
 それらの信仰は、信仰の持ち主が神とどのような関係にあるかを反映しています。
 
 人は、配偶者に対してある種の信仰を持っており、医師に対してはそれと少し違った信仰を持っています。
 
 また、牧師や友人に対しても、それぞれ違う信仰を持っています。
 
 聖書は、神のご人格を伝えていますから、私たちは聖書に基づいた信仰によって神に信頼しなければなりません。
 
 聖書の神は、不敬虔な者を義と認める方です(ローマ45)。

  また、無いものを有るもののようにお呼びになる方であり(同417)、主イエスを死者の中からよみがえらせた方です(同424)。
 
 圧倒的な力を持っておられる神は、その力によって義のないところに義をもたらし、何も存在しないところに創造を行い、命のないところに命をもたらします。
 
 私たちが信じている神は、そのような方です。
 
律法の行いには依らない
 
 それでは、律法の行いの何が問題なのでしょうか。パウロによれば、律法の行いは、肉と関係しています。
 
「律法の行い」とは、聖霊の力によらずに、キリストと無関係に律法を守ることです。 
 
 そのような条件では、律法を守ることは明らかに不可能です。
 
「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」(ローマ3:20)
 
 パウロは、イスラエルの歴史を通してそれが真実であることを学びました。
 
 イスラエルには、「聖であり、正しく、また良いもの」である律法が与えられ(ローマ712)、

 神のいろいろな言葉が委ねられていたにもかかわらず(ローマ32)、神を喜ばせることはできませんでした。
 
 肉は無力で、従うことができないのです。

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました」(ローマ83)。
 
 肉によって律法に従おうとすることは、足場やつかまる所のない急な岩壁を、装備なしで登るようなものです。
 
 実のところ、問題なのは肉の弱さだけではありません。肉は、神に逆らうという問題もあるのです。
 
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです」(ローマ87)。…
 
 ローマ87が示唆しているのは、私たちの肉は、神を喜ばそうなどと考えもしないことです。
 
 ですから「律法の行い」の問題点がどこにあるかと言えば、うなじのこわい人間が自分たちの好き勝手な状態に置かれた場合、神を喜ばせるには程遠いということです。
 
 神は、ただ恵みによって義と認めてくださるのだと、パウロははっきり述べており、神が一方的に救いを起していることを強調しています。
 
 律法には、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである」と書かれていますが(申命記625)、
 
 実のところ、救いにおいて律法の行いが入り込む余地はまったくありません。
 
 これまで述べてきたとおり、人間が律法をある程度守り、足らないところを神に補ってもらう、というものではありません。
 
 義と認められることについて言うなら、私たちは最初から躓いているのです。
 
 救いのわざ全体を神が行ったことが明らかになるために、神が一方的に働いているのです。
 
もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります」とあるとおりです(ローマ116)。
 
 義認の教理の中核には、罪人もで神に義と認めてもらうことができるのだ、というメッセージがあります。
 
 義認は、信じるすべての人に起こるもので、律法の遵守とは一切関係ありません。

 罪人には、律法の遵守は不可能だからです。
 
 この点を述べた上で、パウロが信仰義認の教理をどのように用いているかに触れておこうと思います。
 
 ガラテヤ書に書かれているように、パウロは義認論を持ち出して、異邦人クリスチャンは律法のくびきを負う必要がないと論じています。
 
 またローマ書では、異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンは、和合して生きるべきだと論じています(14章と15章)。
 
 NPPは、それらのことを正しく理解しています。
 
 私たちも、それらのことを軽視しないように注意しなければなりません。

 さもなければ、ミイラ取りがミイラになってしまうからです。
 

 終わり

(原文の「その8」の分を追記し、これをもって完結と致しました。)