パウロが真に云わんとしたこと その6(NPP検証論考)
1世紀のユダヤ人の律法理解には、様々なバリエーションがありましたが、NPPの義認論は、その中の一部に基づいたものに過ぎません。
その結果、新約聖書における「義」=神の民に加わること、という結論に行き着きます。
これにより、NPPの義認論が、聖書に基づくそれとは食い違っていることが鮮明になりました。
引き続き、博士の解説を見ていきましょう。
以下は、米Christianity Todayに2007年8月10日に掲載されたWhat Did Paul Really Mean?(著者:サイモン・ガザーコール)の翻訳です。
引用元
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しかし、その義の身分が、今やキリストを信じる者たちに与えられているのです。
以前の私たちは、神の栄光の代わりに偶像を拝む者であり、不従順のゆえに、真理を抑圧していましたが、そのような私たちを、神は義と宣告されました。
言い換えるなら、私たちは、律法のすべての命令を全うした者として神の前で認められたのです。
義認というのは、法的な意味で私たちの身分を義しいと宣言するのと同時に、神と私たちの関係に関する宣言でもあります。
罪人である者が、すべての命令を遂行した者だと、神から認められたのです。
キリストの十字架のゆえに義と認められたということは、私たちはもはや、神の前で不安を感じる必要がないということです。
後わりの日の裁きに立つとき、義と認められた私たちが、神と永遠を過ごすことを妨げられることは決してありません。
ローマ8:33の「神が義と認めてくださるのです」という表現は、「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」という問いに対するパウロの答えなのです。
当然ながら、私たちを訴える者など誰一人いません!
パウロがこの箇所を書くにあたり、次のイザヤの言葉を念頭に置いていたことは、まず間違いないでしょう。
私を義とする方が近くにおられる。だれが私と争うのか。
さあ、さばきの座に共に立とう。どんな者が、私を訴えるのか。
私のところに出て来い。
見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。
見よ。彼らはみな、衣のように古び、しみが彼らを食い尽くす。
イザヤ50:8~9
信仰による義認
信仰の意味について、パウロは別の言葉を用いてわかりやすく説明しています。
(パウロを理解することは、言われているほど難しくありません!)
彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
ローマ4:18~22
この箇所から、信仰(または、信じること)に関して、3つのポイントが理解できます。
1.アブラハムは、神の助けなしには、自分の将来がはかないことを認めていました。
神は、アブラハムの子孫は星のように増えると約束しましたが、人間的にはそのようなことは不可能でした。
アブラハムは、「自分のからだが死んだも同然である」という現実に直面していたからです。
アブラハムは主に信頼しましたが、人間的には「望みえない」状況にありました。
そういうわけで、神に信頼するということは、普通の生活に、ちょっとした何かを加えるだけで済むものでありません。
信仰には、心の向きを180度転換することが求められるのです。
2.しかし信仰とは、単に心の姿勢の問題ではありません。
信仰とは、神の約束に応答することです。
アブラハムの場合、「あなたの子孫はこのようになる」という主の言葉に応答しました。
言い換えると、信仰というのは、中身のない謙遜ではありませんし、高次元の力に対して希望を託すことでもありません。
私たちは、信仰によって神の約束と、約束の中に具体的に表現された内容とに、応答するのです。
主が語られ、その語り掛けに対する応答として、私たちが主に信頼する、それが信仰です。
主はアブラハムに、具体的な約束をしました。