パウロが真に云わんとしたこと その5(NPP検証論考)
資料には、「義を行う者は…自分のためにいのちを蓄える」「自分の行いによって救われた者たち」といった文言があり、行いによる救いの概念が明らかに見られます。
また、NPPは個人的な救いを否定する傾がありますが、博士は聖書箇所を挙げ、パウロの説く義認や信仰が個人的なものであることを論じました。
ローマ4:5の「何の働きもない者」は、原文を見ると単数形で書かれています。それゆえ義認は、信じる者一人ひとりが、個人的に体験するものであることがわかります。
また、ローマ12:3やガラテヤ2:20でパウロが論じる信仰も、個人の信仰として書かれています。
この記事では、引き続きガザーコール博士が、更にNPPの3つの問題点を説いていきます。
以下は、米Christianity Todayに2007年8月10日に掲載されたWhat Did Paul Really Mean?(著者:サイモン・ガザーコール)の翻訳です。
引用元
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4.もう一つのNPPの傾向として、義認の内容と義認の適用を混同している点が挙げられます。
確かに、信仰義認の結果として、異邦人は神の民の一員になります。
しかし、信仰義認の中核にある趣旨は、信じる者に罪があるにもかかわらず、神の前に義と認められるということで、この点の理解は必要にして不可欠です。
その理解があってこそ、義認の範囲について語ることが可能になるのです。
すなわち、あらゆる言語、部族、民族の中から、信じるすべての者が義と認められるということです。
しかし残念なことに、NPPの一部は、義認の主な内容は、神の民に加えられることであると強調しています。
それにより、更に2つの影響が生じることになります。
5.義認の主要な内容が神の民に加えられることだとすることは、罪の悪質性を軽視することに繋がります。
義認をそのような意味で理解すると、罪人が義とされることの意義を強調しているパウロの意図を見失う恐れがあります。
ある著名な新約聖書学者は、義認とは神が余分にもう一つの部屋を建て増しし、そこに異邦人を住まわせてやることだと述べています。
しかしその見方は、ある事実をないがしろにしています。
すなわち、イスラエル人も異邦人も罪人であり、双方に義と認められる必要があるという事実です。
*インクルージョン:多種多様な価値観や考え方を持つ個人ひとり一人を活かすこと。
最近、出版されたローマ人への手紙の注解書では、ローマ人への手紙の理解の鍵は、相互受容にあると強調されていました。
その注解書には、著者が、ローマ16:17~20は後代の加筆であると考えていることが明示されています。
なぜそう考えるのかというと、その箇所には、分裂や躓きを引き起こす異端者からは遠ざかるようにとの指示が書かれているからです。
つまりパウロは、一致と教理は、互いに排除し合うものではないと主張しているのです。
真の一致というのは、教理上の妥協によって生まれるものではなく、福音の中心的真理を尊重することによって生まれるからです。
繰り返しますが、忘れてはならないのは、NPPが一枚岩ではないということです。
それゆえ、ここで論じている批判が、特定の人物に総じて当てはまることはありません。
しかし、NPPを学ぶ際には、ここで論じたNPPの特徴に注意を払うべきでしょう。
頑なな心には義認が必要
とは言え、パウロに関する新しい見方について議論するだけでは、十分ではありません。
聖書が義認について、どう教えているかを理解しておく必要があります。
聖書によれば、神は(信じる者を)義と認めるお方です(ローマ8:33)。
三位一体の神は、その大きな愛のゆえに御子を遣わし、身代わりとして死なせてくださいました。
それを土台として、神は信じる者を義と認めるのです(ローマ5:1~11)。
ところで義認というのは、どういった出来事なのでしょうか。
義認という言葉そのものは、様々な訳し方がされていますので、義認を定義づけしている聖書箇所を見ておく必要があります。
聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」(ローマ4:3、創世記15:6の引用)
私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである。申命記6:25
しかし残念なことに、神が贖罪の恵みと律法を与えてくださったにもかかわらず、イスラエル人はしばしば異邦人のように振る舞いました。
イスラエル人はうなじがこわく、心が頑なで神に逆らったため、彼らは一度も、義の身分を獲得できませんでした。