パウロが真に云わんとしたこと その4(NPP検証論考)
しかしこの記事では、ついにガザーコール博士が、NPPの問題点を指摘しはじめます。
早速、博士の論考を見ていきましょう。
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以下は、米Christianity Todayに2007年8月10日に掲載されたWhat Did Paul Really Mean?(著者:サイモン・ガザーコール)の翻訳です。
引用元
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そいうわけで、NPPが提示する情報の更なる検証が、依然として学問的研究の重要な位置を占めています。
講壇からユダヤ教について語るとき、また、個人的な場で聖書について語り合うとき、私たちも表現の仕方に注意しなければなりません。
1世紀のユダヤ人の一部が、律法とは関係のない制限を押しつける解釈をしていたことは確かです。
しかし私たちは、まるで律法が無価値な規則や規定であるかのごとく、律法そのものを批判してはいけません。
そのようになことをすれば、神ご自身を批判することになるからです。
神の律法は、「聖なるものであり、正しく、また良いもの」であることを忘れてはなりません(ローマ7:12)。
6つの傾向
しかし私の判断では、NPPにも幾つかの誤りがあります。
1.ここで、EPサンダースに話を戻します。
「義を行う者は、主と共に自分のためにいのちを蓄える」(ソロモンの詩編、紀元前50年頃)。
「しかし自分の行いによって救われた者たちには、その者たちの時が来ると、奇跡が現れるであろう」(第二バルク書、紀元100年頃)。
これらと同じような事例は、多数あります。
他方、サンダースにとっての律法遵守は、神がすでに結んでいた契約の中に、ユダヤ人が留まることだけを目的とした行為だったということは、先述したとおりです。
私の理解では、また、他の多くの学者たちもそうですが、パウロは、律法全体の遵守を念頭に置いていました。
律法の行いというのは、律法を守ること、つまり律法のすべてを守ることです。
イスラエル人という人間たちに、律法全体を守れる能力があるか否かの問題です。この点については、後述します。
3.パウロの言う義認は個人的なものではないという批判があります。
そのような批判をすることは、大事なものを無用なものと一緒に捨てるようなものです。
NPP学者たちは、信仰は民族を超えたもので、ユダヤ人にも異邦人にも与えられるものだと考えることにより、
義認は個人の救いを超えたより大きな神のわざだと強調し、信仰を変質させてしまいます。
しかしパウロ神学において、信仰と救いの個人的側面は避けて通れません。個人的な信仰も救いも極めて重要だからです。
教会はひとかたまりの人類ではなく、個人の集合体です。
そして、信仰には各教会の特徴が現れるという一面もあります(ローマ1:8、コロサイ1:4)。
つまり、個人的信仰と共同体としての信仰は、互いにぶつかり合うものではないのです。