ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

パウロが真に云わんとしたこと その4(NPP検証論考)

 
 その3から、ガザーコール博士によるNPPの検証がはじまりました。
 
 第二神殿時代のユダヤ人の律法理解には、大きな意味があること、それゆえ私たちは、ユダヤ教を偏見視してはならないこと、などが語られました。
 
 しかしこの記事では、ついにガザーコール博士が、NPPの問題点を指摘しはじめます。

 早速、博士の論考を見ていきましょう。
 
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 以下は、Christianity Today2007810日に掲載されたWhat Did Paul Really Mean?(著者:サイモン・ガザーコール)の翻訳です。
 
引用元
 
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 それでも一部の学者たちは、サンダースは、従来の一面的ユダヤ教理解の反面教師として、やはりユダヤ教理解の一側面だけを提示していると指摘しています。
 
 そいうわけで、NPPが提示する情報の更なる検証が、依然として学問的研究の重要な位置を占めています。
 
 講壇からユダヤ教について語るとき、また、個人的な場で聖書について語り合うとき、私たちも表現の仕方に注意しなければなりません。
 
 ユダヤ人には福音が必要だという趣旨の話をするとき、私たちクリスチャンは、ユダヤ教を蔑視してはならないのです。
 
 同様に、牧師が福音書使徒の働きから説教するとき、主イエスパウロが、ユダヤ人を批判していたことと、ユダヤ人がモーセの律法を重んじていたこととを、区別して語らなければなりません。
 
 1世紀のユダヤ人の一部が、律法とは関係のない制限を押しつける解釈をしていたことは確かです。
 
 しかし私たちは、まるで律法が無価値な規則や規定であるかのごとく、律法そのものを批判してはいけません。
 
 そのようになことをすれば、神ご自身を批判することになるからです。

 神の律法は、「聖なるものであり、正しく、また良いもの」であることを忘れてはなりません(ローマ712)。
 
6つの傾向
 
 しかし私の判断では、NPPにも幾つかの誤りがあります。

ここで、EPサンダースに話を戻します。

 サンダースは、パウロ時代のユダヤ教は、救いは律法の遵守によって獲得するものだとは考えていなかったと主張しています。

 プロテスタントの学者たちが、ユダヤ教が律法の遵守によって救いを獲得しようとしていることを誇張し過ぎたことは確かですが、それもあながち間違いではありません。

 パウロ時代の資料によれば、ユダヤ人の一部は終末時代に救いと共に律法遵守の報いを受けると信じていたことが記されています。

「義を行う者は、主と共に自分のためにいのちを蓄える」(ソロモンの詩編紀元前50年頃)。

「しかし自分の行いによって救われた者たちには、その者たちの時が来ると、奇跡が現れるであろう」(第二バルク書、紀元100年頃)。

 これらと同じような事例は、多数あります。

 それゆえ、パウロ律法の遵守による義認を批判したことは、意味がとおるのです(ローマ320

 パウロ時代のユダヤ人の多くは、神の積極的介入がなくても、律法に従うことが可能だと考えていたようです。

 一方、パウロにとっては、十字架、復活、ペンテコステという世界を揺るがす出来事なしに、救いは不可能でした。

 他方、サンダースにとっての律法遵守は、神がすでに結んでいた契約の中に、ユダヤ人が留まることだけを目的とした行為だったということは、先述したとおりです。

 しかしパウロにとって、服従は単なる形式的な行為ではなく、神による強力な助けを必要とするものであり、それがあって初めて可能になるものだったのです。

パウロが「律法の行い」というフレーズを使う場合、安息日と割礼と食事法の遵守のみを念頭に置いていたのでしょうか。

 私の理解では、また、他の多くの学者たちもそうですが、パウロは、律法全体の遵守を念頭に置いていました。

 律法の行いというのは、律法を守ること、つまり律法のすべてを守ることです。

 ですから、律法の行いに関して問題になるのは、ユダヤ人のアイデンティティーではなく、

 イスラエル人という人間たちに、律法全体を守れる能力があるか否かの問題です。この点については、後述します。

パウロの言う義認は個人的なものではないという批判があります。

 そのような批判をすることは、大事なものを無用なものと一緒に捨てるようなものです。

 一部のNPP学者は、義認の個人主義的理解を批判したがります。

 NPP学者たちは、信仰は民族を超えたもので、ユダヤ人にも異邦人にも与えられるものだと考えることにより、

 義認は個人の救いを超えたより大きな神のわざだと強調し、信仰を変質させてしまいます。

 しかしパウロ神学において、信仰と救いの個人的側面は避けて通れません。個人的な信仰も救いも極めて重要だからです。

 教会はひとかたまりの人類ではなく、個人の集合体です。

 また、パウロの言う信仰は個人が実践するものです(ローマ45、同123、ガラテヤ220参照)。

 そして、信仰には各教会の特徴が現れるという一面もあります(ローマ18、コロサイ14

 つまり、個人的信仰と共同体としての信仰は、互いにぶつかり合うものではないのです。