ダビデの日記

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パウロが真に云わんとしたこと その3(NPP検証論考)

 
ガラテヤ2:1416
しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
 
 
 その2では、NPPが考える「律法の行い」は、安息日・割礼、食事法の遵守のみを指す、ということを理解しました。
 
 NTライトは、その理解をガラテヤ2:11~16に適用して、次のように言います。
 
 しかしパウロは法廷にいるわけではなく、食事の席にいるのだ。

 彼が「律法の行いによっては義と認められず」と語った背景は、民族の違いを越えて食事を共にするという民族的タブーの問題における対立である。
 
 この箇所における「義と認められる」の意味は、「罪の赦しを値なしに受ける」とか「神との正しい関係に入る」というものではない。
 
 具体的に言うなら、「民族の一員として真に神から認められることであり、それゆえ、食卓の交わりを共有することは正しい」という意味であると、結論せざるを得ない。
 
「義認」という言葉が何を含むにしても、それはパウロにとって、神が(神の民への)加入権を与えたことを意味しているのだ。
                        NTライト著、Justification, P96
 
 
 ライトが言うように、ガラテヤ2章においては、「律法の行い」をNPP流に解釈しても文脈に反することはありません。
 
 しかし、「律法の行い」という表現が使われている他の箇所では、そうはいきません。例えば…

 
ガラテヤ3:10
というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
 
 
 パウロは上記の箇所で、七十人訳申命記2726すべてのことを…守らなければ…のろわれる」を引用し、
 
「律法の行い」は、安息日や割礼、食事法だけでなく、すべての戒めを守ることであることを示唆しています。
 
 このように、ライトの主張に欠陥があることは否めません。
 
 これを踏まえた上で、引き続きガザーコール博士の説明に耳を傾けましょう。 
 
 以下は、Christianity Today2007810日に掲載されたWhat Did Paul Really Mean?(著者:サイモン・ガザーコール)の翻訳です。
 
引用元
 
                 ***
 
 NPPは、必ずしも従来の信仰の意味を否定するわけではありません。むしろ信仰の意味を、別のことろに見出そうとします。
 
 NPPにおても、信仰はパウロの義認論の中核を占めています。異邦人は、ユダヤ教徒にならなくてもクリスチャンになれると、パウロが教えているからです。
 
 ローマ書前半でもそうですが、パウロはガラテヤ書でもそのように述べています。
 
 しかしガラテヤ教会では、問題が起きていました。ガラテヤ2章は、喜ばしい話と悲しい話が入り混じっています。
 
 ペテロとパウロは、エルサレムで出会った当初、異邦人クリスチャンは律法を守る必要はないという点で見解が一致していました(ガラテヤ2110)。
 
 ところが後にアンテオケで、ペテロはユダヤ人と異邦人の間に、再び壁を作ってしまいます。
 
 敬虔なユダヤ人としての評判を守るため、ペテロは異邦人との交わりから身を引いてしまうのです(ガラテヤ21114)。
 
 パウロはこの行為を問題視します。そして、人は律法の行いではなく、ただ信仰のみによって神の契約に預かる者となるのだと、ペテロを厳しく戒めます(ガラテヤ21516)。
 
 つまり信仰とは、ユダヤ人と異邦人が一緒に食事をすることなのです。
 
 それと同じ原理で、信仰による義認は、神がユダヤ人だけではなく、異邦人も受け入れることを意味します。
 
 一部の人は、パウロはこの点をローマ32830でさらに明確に述べていると言います。
 
「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。」
 
 NPPの提唱者は、28節の「律法の行ない」とは、律法全体を守ることではなく、安息日や割礼、カーシェール(食事法)を守ることだけを指していると解釈する傾向があります。
 
 異邦人が安息日や割礼、カーシェールを守らなくても、神は異邦人を(神の民の一員として)歓迎してくださると、NPPは解釈するのです。
 
 この解釈は、神がユダヤ人だけの神ではなく、異邦人の神でもあるという29節~30節の文脈に上手く合致するではないかと、NPP提唱者は言うのです。
 
直訳は「律法の行いなしで義とされる」
 
NPPの検証
 
 一部の批判者はNPPが何から何まで間違いだらけだと言いますが、そのように考えてはいけません。
 
 NPPの一つの良い点は、神がキリストにあって、ユダヤ人と異邦人の隔たりをなくしたことを強調していることです。
 
 パウロは、ユダヤ人と異邦人のクリスチャンが、信仰という同一の基盤で救われることを強調するために義認という概念を用いています。
 
 またNPPの功績として、パウロが置かれていた歴史的背景に気づきがせてくれた点もあります。
 
 パウロが当時のユダヤ人と交わした議論は、後にアウグスティヌスとペラギウスの間でも大論争になり、ルターと彼の論敵との間でも一定の議論がありました。
 
 つまり、1世紀のユダヤ人の律法理解に大きな意味があることは確かなのです。
 
 私たちは、宗教改革というお気に入りの背景で、パウロの神学を理解してはいけません。
 
 いみじくもEPサンダースは、プロテスタントによる従来のユダヤ教理解は、ローマ・カトリックの行いによる義を意識しすぎていると指摘しています。
 
 つまりサンダースは、ユダヤ教を公平で偏見なしに見ているのです。
 
 教会はユダヤ教を見下してはならないという指摘もまた、NPPがもたらした意義ある貢献です。
 
 サンダースは、パウロ時代のユダヤ教文献が真に語っていることに耳を傾けるよう、学者たちを啓発してくれたのです。