サンダースは第二神殿期のユダヤ教を研究した結果として、「契約に基づく律法遵守説1/covenantal nomism」を提唱します。
「契約に基づく律法遵守説」とは、1世紀のユダヤ人は律法の行いによってアブラハム契約に入ろうとしたのではなく(義と認められようとしたのではなく)、
ユダヤ人は生まれながらにして契約に入っているので、その立場を維持するために律法を遵守していた、という概念をいいます2。
もしこの概念が正しいとすると、従来、パウロの論敵と考えられてきた律法主義者の主張(律法の行いによって救いを獲得する)は、当時、存在しなかったことになります。
そして必然的に、パウロの義認論を考え直す必要が生じます。こういったことを論じているのがNPP(パウロに関する新しい見方)です。
それでは前回のつづきを見ていきましょう。前回を振り返りたい方はココを→その1
注
1.「契約に基づく律法遵守説」という表現はブログ主の私訳
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以下は、米Christianity Todayに2007年8月10日に掲載されたWhat Did Paul Really Mean?(著者:サイモン・ガザーコール)の翻訳です。
引用元
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NPPに関する重要事項を2つ見ておきましょう。
1つ目としてNPPというのは、パウロに関する新しい見方というよりはユダヤ教に関する新しい見方であるということです。
NPPは、パウロ時代のユダヤ人は行いによって神の前に功績を積む(義と認められる)ことができると信じていたという従来の見方を否定します。
そうした規範こそがユダヤ民族としてのアイデンティティーを際立たせるものであり、契約の民と他の諸民族の違いを明らかにするからです。
2つ目としてNPPは、1世紀のユダヤ人に関する上記のような理解(契約に基づく律法遵守説)をパウロ神学に適用します。
NPPでは、パウロの言う「律法の行い」とは、上記のようなユダヤ教の規範(安息日、割礼、食事規定)を遵守することだけを指していたと理解されます。
パウロが問題にしていたのは律法主義による自己義認ではなく、神によるユダヤ人の選びを際立たせ、異邦人を(契約から)除外する律法の行いだけだったと、NPPは考えます。
パウロは異邦人の使徒として召されていたため、契約をユダヤ人だけに限定するのは誤りだと考えていた、とNPPは主張します。
NPPによれば、パウロは、その考え方(契約に基づく律法遵守説)を教会にも適用しました。
ユダヤ人が誤って神の契約をユダヤ人だけに制限したのと同じように、ユダヤ人クリスチャンも、異邦人クリスチャンが正式な弟子になるには律法を守らねばならないと誤って主張した、とNPPは言うのです。
それゆえパウロは、アンテオケでのペテロの態度を問題視した(ガラテヤ2:11~14)と、NPPは考えます。
これら2つのポイントが、1970年代後期から80年代初期における神学的騒乱から生じた産物です。
ユダヤ教に関する新しい見方は、主にEPサンダースの著書「Paul and Palestinian Judaism」(1977年発行)によって論じられました。
サンダースは、従来の見方には、反ユダヤ的な傾向があること、また、ユダヤ教がキリスト教よりも劣っていると考える傾向があることを強く懸念しました。
サンダースの狙いは、1世紀のユダヤ教のイメージを一新し、キリスト教が持つ偏見を取り除くことにありました。
サンダースは、ユダヤ教の中核には、神によるユダヤ人の選びとエジプトからの解放があり、律法の遵守は(義認のためではなく)契約に留まるためだけのものだったと主張しました。
学者らは、サンダースの著書をユダヤ教研究に大きく貢献するものとして評価したものの、パウロ神学への適用については無頓着でした。
その後、NTライトやジェームズ・ダンが、「契約に基づく律法遵守説」をパウロ神学に調和させることに成功しました。
彼らは、安息日や割礼、カーシェールの順守によって民族的な義を維持する「排他主義」に焦点を当てました。
こうしてNPPは、民族的な義を唱える排他主義者こそ、パウロの論敵だった。しかし神はユダヤ人と異邦人を区別せず、すべての民族からメシアを信じる人々を興している、と主張するようになりました。
喜びではじまり、悲しみで終わる
伝統主義の学者もNPP学者も、パウロが「律法の行い」という問題を「信仰」という答えで解決しているという点では、ほぼ一致しています。
しかし、NPPが「律法の行い」の意味に変化を加えたのであれば、信仰の意味にも多少は変化を加えたはずです。
従来の見方では、信仰は人間の義の行いではなく、神の憐みだけに信頼することを意味します。
しかしNPPの理解では、信仰とは、ユダヤ人と異邦人の双方が持つことのできるバッヂ(badge)、またはアイデンティティーのしるしに過ぎないのです。