ダビデの日記

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パウロが真に云わんとしたこと その1(NPP検証論考)


 NTライトの著書「Justification - God's Plan & Paul's Vision」を読んでわかったのですが、
 
 ライトが「義」という概念を「契約加入権/covenant membership」と解釈するようになった背景には、第二神殿期のユダヤ教の理解があります。
 
 ライトは、第二神殿期のユダヤ人が律法をどう理解していたかを研究し、その結果に基づいて、パウロが言う「義」の意味を「契約加入権」と解釈しています。
 
 言い換えると、ライトの義認理解の是非を判定するには、第二神殿期のユダヤ教研究の結果そのもの検証が必要になります。
 
 米Christianity Todayの記事に、それを含めて、NPPパウロに関する新しい見方)に関するわかりやすい論考があったので、その翻訳記事を連載します。

 
論考の原題:What Did Paul Really Mean?
著者:サイモン・J・ガザーコール博士(Dr. Simon Gathercole
   2007年10月よりケンブリッジ大学新約聖書学上級講師。
   ガザーコール博士は、第二神殿期のユダヤ教に関する知識で称賛を集めている他、
   NTライトによるパウロの義認論に対する堅固な批判も展開している。
 
引用元:
 
                  ***
 
パウロが真に云わんとしたことWhat Did Paul Really Mean? サイモン・ガザーコール
2007810CTに掲載)
 
 ここ30年近く(2017年現在では40年近く)、多くの神学者が、パウロとその義認論に関する「新しい見方」を提唱しています。
 
 このアプローチの提唱者は、宗教改革の擁護者は間違っている、あるいは惑わされていると考えています。
 
 懸念事項の中には、マルティン・ルターが「キリスト教教理の中軸となる条項」と評した義認(justification)も含まれます。
 
 しかし福音主義者の一部は、NPP神学者、特にジェームズ・ダン(James D. G. Dunn)NTライトらの著作に、パウロの本来の意図を紐解く鍵があると考えています。
 
 一体、これほどまでに騒がれているNPPとは、如何なる概念なのでしょうか?
 
パウロに関する新しい見方
 
 まず初めに明確にしておかなければならないのは、「パウロに関する新しい見方」という表現は、額面通りに受け取れるものではないということです。
 
 一つには、そのような新しい概念を推進する秘密結社は、存在しません。NPP提唱者の間でも、見解が一致していないということです。
 
 NPP関連の学者らは、伝統主義者と同じくらい激しく、議論を戦わせています。むしろNPPという表現は、最近のパウロ論の流れを、便宜上わかりやすくした表現にすぎません。
 
 このことから、第二のポイントが浮上します。NPPは、パウロがもたらしたすべての概念を再評価するものではありません。
 
 例えば、キリスト論、聖霊論、信仰生活などについては、NPPは何も新しいことは述べていません。
 
 NPPのテーマは、パウロの義認論にあります。
 
 更に的を絞るなら、NPPが扱っているのは、パウロが信仰による義認を論じた際、パウロは如何なる概念を論駁しようとしたのかに関することです。
 
 特にNPPは、パウロが「律法の行い」を問題視した理由を問うています。
 
 パウロに関する従来の見方と新しい見方の相違点は、次のように要約できます。
 
 従来の見方における律法の行いは、功績として神の前に認められるために、人間が行う義の行為のことです。
 
 一方、新しい見方における律法の行いは、ユダヤ人の特権を強調したり、ユダヤ人が諸民族の中から選ばれたことを強調したりするユダヤ法の要素のことです。
 
 
 その2 


*訳注:以下に、NPP内部の意見の相違の一例を挙げます。
 
 NTライトは、1世紀のユダヤ人は、依然として自分たちが捕囚状態にあると考えていたと主張しています。
 
 しかし、第二神殿期ユダヤ教論の大御所であるEPサンダースは、次のように異論を唱えています。
 
「第二神殿期のユダヤ人が抱いていた様々な不満を表現するのに、捕囚という用語を使用するのは不適切だと、私は考える。捕囚という用語の使用を裏付ける証拠も、それほど濃厚ではない。」
 
引用元:E.P. Sanders on Pauls Life, Letters, and Thoughtby Michael F. Bird, May 1, 2017