パウロが真に云わんとしたこと その1(NPP検証論考)
ライトが「義」という概念を「契約加入権/covenant membership」と解釈するようになった背景には、第二神殿期のユダヤ教の理解があります。
言い換えると、ライトの義認理解の是非を判定するには、第二神殿期のユダヤ教研究の結果そのもの検証が必要になります。
米Christianity Todayの記事に、それを含めて、NPP(パウロに関する新しい見方)に関するわかりやすい論考があったので、その翻訳記事を連載します。
論考の原題:What Did Paul Really Mean?
著者:サイモン・J・ガザーコール博士(Dr. Simon Gathercole)
引用元:
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(2007年8月10日CTに掲載)
このアプローチの提唱者は、宗教改革の擁護者は間違っている、あるいは惑わされていると考えています。
一体、これほどまでに騒がれているNPPとは、如何なる概念なのでしょうか?
パウロに関する新しい見方
まず初めに明確にしておかなければならないのは、「パウロに関する新しい見方」という表現は、額面通りに受け取れるものではないということです。
一つには、そのような新しい概念を推進する秘密結社は、存在しません。NPP提唱者の間でも、見解が一致していないということです。
このことから、第二のポイントが浮上します。NPPは、パウロがもたらしたすべての概念を再評価するものではありません。
例えば、キリスト論、聖霊論、信仰生活などについては、NPPは何も新しいことは述べていません。
NPPのテーマは、パウロの義認論にあります。
特にNPPは、パウロが「律法の行い」を問題視した理由を問うています。
パウロに関する従来の見方と新しい見方の相違点は、次のように要約できます。
従来の見方における律法の行いは、功績として神の前に認められるために、人間が行う義の行為のことです。
*訳注:以下に、NPP内部の意見の相違の一例を挙げます。
NTライトは、1世紀のユダヤ人は、依然として自分たちが捕囚状態にあると考えていたと主張しています。
しかし、第二神殿期ユダヤ教論の大御所であるEPサンダースは、次のように異論を唱えています。
「第二神殿期のユダヤ人が抱いていた様々な不満を表現するのに、捕囚という用語を使用するのは不適切だと、私は考える。捕囚という用語の使用を裏付ける証拠も、それほど濃厚ではない。」