ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

信仰義認・予定論の再解釈

行いによる救いを反証する最強の聖書箇所

この記事では、「救いには行いが必要だ」という概念を100%否定する聖書箇所について述べたいと思います。 ルカ18:15~17・新共同訳 15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。 16 しかし、イエ…

「わたしの父のみこころを行なう者がはいるのです」は「行いによる救い」を教えている?

「救いは信仰と行いによる? ヤコブ2章後半」という過去記事のコメントで、マタイ7:21が行いによる救いを教えているのではないかというご質問をいただきました。 すでにコメントもでもお答えしたのですが、記事として加筆したいと思います。 ●原文からわ…

救いは信仰と行いによる? ヤコブ2章後半

ヤコブ2:24 人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。 ヤコブ書2章の後半は、プロテスタントが標榜する「信仰のみによる救い」と矛盾すると言われる箇所として有名です。 特に冒頭に挙げた箇所には「…

マタイ25章の羊と山羊の譬えは「行いによる救い」を教えている?

一部の方々は、マタイ25:31~46の「羊と山羊の譬え」が「行いによる救い」を説いていると考えます。 この記事では、この箇所が何を教えているかを検証したいと思います。 ●文脈と釈義 この箇所の正しい理解の鍵は、34節にあると思います。 マタイ25:34 そう…

浅野淳博氏のガラテヤ2:16解釈の誤り その3

その2では信仰による義認が瞬間的な出来事であることを確認し、浅野氏の見解が聖書の教えと異なることを述べました。 この記事では、浅野氏の義認論を再度パウロの義認論と比較し、最後はイエスさまの義認論と比較します。 ●パウロの義認論との比較 ガラテ…

浅野淳博氏のガラテヤ2:16解釈の誤り その2

その1では、ピスティスが「線的なもの」であるとする浅野氏の見解が釈義的誤謬であると述べました。 この記事では、その釈義的誤謬を聖書の記述と照らし合わせて説明します。 ガラテヤ2:16 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリス…

浅野淳博氏のガラテヤ2:16解釈の誤り その1

信仰義認を再解釈する試みが後を絶ちません。 今回検証するのは、浅野淳博氏(関西学院大学教授)の見解です。 『NTJガラテヤ書簡』刊行に合わせ沖縄で浅野淳博氏が講演 2018年2月1日 このキリスト教新聞の記事中に、次のように浅野氏の見解が述べられてい…

根本的に誤っているのは誰?

前回の記事と同じ牧師さんがこのようなことを言っていますが、これはどうなのでしょうか? そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である…

邦語訳聖書のガラテヤ2:16は誤訳なの?

ある牧師さんが、ブログで次のように述べています。 ガラテア2章16節における日本語訳について一言。 余りにひどいので正確に見ておきたい聖句の一つだ。 律法の働きは人を義とはしない イエスキリストの信仰が人を義とする イエスキリストにあって それ…

マタイ5:20における「義」の意味

イエスさまがマタイの福音書で語っている「義」とは、どのようなものでしょうか? パウロが教えている義と同じでしょうか、違うのでしょうか? この記事では、以下の参考文献のP80~P90に基づいて、マタイにおける「義」の意味を解説します。 Righteousness…

善きサマリア人の譬えに見る主イエスの真意

ある日本人神学者は、善きサマリア人の箇所は、行いによる救いを説いていると主張します。 しかし前回の投稿で述べたとおり、十二使徒は行いによる救いを否定しています(使徒15章)。 そのような十二使徒の理解は、真理の御霊が彼らを「すべての真理」に導…

信仰義認への疑いと使徒的解釈

昨今、日本の福音派内でも、信仰義認に対する再解釈が物議を醸しています。 ある新約聖書学者は、信仰義認に対してあからさまに異論を唱えています。 以下は、その方のブログからの引用です(リンクの誤り修正済み)。 たとえば福音書において「信仰と救い…

救われるには行いが必要か? その2

前回は、福音書や使徒の働き、パウロ書簡を取り上げて、それらの箇所が信仰による義認(救い)を教えていることを示しました。 しかし信仰義認を語るとき、必ずと言っていいほど問題になるのがヤコブの手紙です。 一見すると、矛盾したことを書いているよう…

救われるには行いが必要か? その1

信仰義認と関連性のあるテーマについて、短編の記事を書きます。 先ごろクリスチャン・トゥデイに「救われるには信仰と善行の両方が必要」米プロテスタントの半数が同意という記事が出ました。 この記事で言われていることは、裏を返せば、信仰だけでは救わ…

「信仰義認の再解釈」に関する疑問 その10

この記事は、クリスチャン・トゥデイ掲載のコラム「福音の回復(45)誰が救われるの?―信仰による義認、予定説」(前編と後編)に関するものです。 その9では、引用した箇所に含まれる「信じる」という言葉を、三谷氏が意図的に「応答」と歪めてしまい、…

「信仰義認の再解釈」に関する疑問 その9

この記事は、クリスチャン・トゥデイ掲載のコラム「福音の回復(45)誰が救われるの?―信仰による義認、予定説」(前編と後編)に関するものです。 その8では、三谷氏による予定説再解釈の結論が、明らかに聖書と食い違っていることを証明しました。 こ…

「信仰義認の再解釈」に関する疑問 その8

この記事は、クリスチャン・トゥデイ掲載のコラム「福音の回復(45)誰が救われるの?―信仰による義認、予定説」(前編と後編)に関するものです。 その7では、三谷氏が、キリストの救いと直接関連のない聖書箇所を歪曲して、持論の正当化に利用している…

「信仰義認の再解釈」に関する疑問 その7

この記事は、クリスチャン・トゥデイ掲載のコラム「福音の回復(45)誰が救われるの?―信仰による義認、予定説」(前編と後編)に関するものです。 その6では、三谷氏より引用されている聖書箇所の解釈が間違っていることを示しました。 今回取り上げる…

「信仰義認の再解釈」に関する疑問 その6

この記事は、クリスチャン・トゥデイ掲載のコラム「福音の回復(45)誰が救われるの?―信仰による義認、予定説」(前編と後編)に関するものです。 その5では、「神の選び計画」に関する三谷氏による曲解を検証しました。 この記事でも、三谷氏の聖書解釈…

「信仰義認の再解釈」に関する疑問 その5

この記事は、クリスチャン・トゥデイ掲載のコラム「福音の回復(45)誰が救われるの?―信仰による義認、予定説」(前編と後編)に関するものです。 その4では、聖書に書かれている「選び」という表現は「誤解」であり「隠喩」だとする三谷氏の主張が、 …

「信仰による義認の再解釈」に関する疑問 その4

この記事は、クリスチャン・トゥデイ掲載のコラム「福音の回復(45)誰が救われるの?―信仰による義認、予定説」(前編と後編)に関するものです。 その3では、救いは「意識できない」ものだとする三谷氏の見解に、あからさまな誤りがあることを証明しま…

「信仰による義認の再解釈」に関する疑問 その3

この記事は、クリスチャン・トゥデイ掲載のコラム「福音の回復(45)誰が救われるの?―信仰による義認、予定説」(前編と後編)に関するものです。 その2では、三谷氏が主張する救いのメカニズムに関する誤りを、幾つか指摘しました。 三谷氏は、持論に…

「信仰による義認の再解釈」に関する疑問 その2

この記事は、クリスチャン・トゥデイ掲載のコラム「福音の回復(45)誰が救われるの?―信仰による義認、予定説」(前編と後編)に関するものです。 その1では、福音主義の歴史的救済論が、乳幼児や障がい者の救いを否定しているという三谷氏の見解を検証…

「信仰による義認の再解釈」に関する疑問 その1

この記事は、クリスチャン・トゥデイ掲載のコラム「福音の回復(45)誰が救われるの?―信仰による義認、予定説」(前編と後編)に関するものです。 このコラムでは「信仰による義認の再解釈」という大胆な試みがなされているため、このコラムの内容の妥当…