マタイ5:20における「義」の意味
パウロが教えている義と同じでしょうか、違うのでしょうか?
この記事では、以下の参考文献のP80~P90に基づいて、マタイにおける「義」の意味を解説します。
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マタイ5:20
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。
ディカイオスネーは、マタイ6:1にも使われています。
マタイ6:1・口語訳
自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
新改訳や新共同訳の6:1では、「義」の部分が「善行」と訳されています。
このことから、マタイにおける「義」には、生活上の行いと深い関係があることが伺えます。
さて、参考文献の著者は、マタイ5:20の「義」の内容が、5:21~48で説明されていると指摘しています。
それゆえプシビルスキは、5:21~48を入念に調べた上で、5:20の「義」の意味を明らかにしています。
紙幅上、その説明をすべて書くことはできませんので、要点だけを書かせていただきます。
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マタイ5:48
だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
マタイにおけるテレイオスも、それと同じ使い方がされていることを突き止めます。
ディダケー6:2
Εἰ μὲν γὰρ δύνασαι βαστάσαι ὅλον τὸν ζυγὸν τοῦ Κυρίου, τέλειος(テレイオス) ἔσῃ εἰ δ’ οὐ δύνασαι, ὃ δύνῃ, τοῦτο ποίει.
もしあなたが主のくびきをことごとく背負うことができるなら、あなたは完全な者となるだろう(注)。しかし、もしそうすることが難しいのなら、自分のできる範囲でそれを実行しなさい。
*注:「あなたは完全な者となるだろう」の直訳は「あなたは完全になる(未来形)」
ディダケーは、「ことごとく背負う」こと、つまり、量的に最大限背負った状態が「完全な」状態であることを教えています。
ディダケーが書かれた年代は、マタイの福音書と変わらないため、テレイオスの使われ方を知る上で、とても良い事例と言えます。
この事例から、テレイオスに量的尺度の含みがあることが判明しました。
従って、マタイ5:21~47で説かれている行いには、量的な意味での完全さが求められていると、プシビルスキは結論づけています。
もしそうであるならば、マタイ5:20の「義」にも量的尺度の含みがあることになります。
そのことは、マタイ3:15の「すべての正しいこと」(直訳は「すべての義」)という表現から確認できます。
以下に挙げた岩波翻訳委員会訳を見るとわかるとおり、原文では「正しいこと」の部分にはディカイオスネーが使われています。
岩波翻訳委員会訳
「今はそうさせてくれ。このようにすべての義を満たすのは、私たちにとってふさわしいことだから」。
「すべての義」というからには、「すべてはない部分的な義」もあり得ることになります。
このように、マタイがいう「義」は、量的に量ることが可能な義なのです。
これによりプシビルスキは、マタイ5:20や48に量的尺度が示唆されていると結論づけます。
それではここで、この結果をマタイ5:20に適用してみましょう。
マタイ5:20
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義に量的にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。
どうやらイエスさまは、信者の行いにおける義とパリサイ人の行いの義とを、量的に比較しておられるようです。
このことからわかるのは、マタイ5:20の義は、パウロの言っている義とは異なっているということです。
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ローマ3:22
すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
マタイにおける義は、信者の生活における義の行い(善行)を意味しています。
信者が行いによって獲得する義ではありません。
このように本書は、マタイに書かれている義とパウロが言及している義とでは、意味が違うことを指摘しています。
●あとがき
誤解を避けるため、一点だけ述べておきたいと思います。
私は、マタイ5:20で述べられている義は、ヤコブ書2章で言われている義と同じものだと思います。
マタイ5:20は、一見するとイエスさまが行いによる救いを説いているかのように思えます。
パウロが述べている義は、罪人である人間が救われる際に与えられる義ですから、その義を必要とするのは未信者です。
一方、山上の垂訓の聴衆は、すでに救われた信者です。
ですからマタイ5:20は、救いの条件を教えているのではありません。
すでに救われている信者の生活の特徴を教えているのです。
救われている人の生活は、その行いにおいて、不信者であるパリサイ人の義にまさっていることを教えているのです。
逆に、もし誰かの生活上の義がパリサイ人の義にまさっていないとするなら、その人はまだ救われていないのです。
救われている人は、信仰によって神に喜ばれる行いをしているからです(へブル11:6)。
また、救われた人は、神が前もって備えてくださった良い行いをすでにしているのです(エペソ2:10)。
言い換えると、5:20の内容は、救われた人の生活の状態を表現したものであって、救いの条件を提示しているわけではないのです。
そのことは、垂訓の複数の箇所からわかります。
マタイ5:11~12
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
イエスさまのゆえに迫害されるということは、「あなたがた」と呼ばれている聴衆が、献身的で忠実な信者であることの証拠です。
同様に、12節の「天ではあなたがたの報いは大きい」という表現も、聴衆が天に行けること示しています。
マタイ5:19
だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
この箇所は5:20の直前です。
ここには戒めを破った者についての言及がありますが、仮に破った場合でも天の御国に入れることを暗示しています。
マタイ6:32
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
この32節では、信仰を持たない「異邦人」との対比がされています。
このことから、聴衆がすでに信仰を持った神の民と見なされていることを伺い知ることができます。
このように、イエスさまは行いによる救いを教えているのではなく、聴衆がすでに救われていることを前提にして話しているのです。
それを理解した上で、マタイ5:20の義の意味をご理解していただければ感謝です。
終わり