ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

聖書の霊感に関する考察

 
 聖書は間違いなく、神の言葉です。
 
 過去記事の前編後編でも述べたとおり、私はこの点を否定するつもりは毛頭ありません。
 
 しかし、このあと引用する神学的説明には違和感を感じます。
 
 日本でも屈指の神学者である宇田進先生は、「実用聖書注解」(いのちのことば社)のP8で、2テモテ3:16について次のように述べています。
 
 
さて、ここで「神の霊感による」と訳されている(ギ)セオプニューストスは、根本的には、聖書が人間的著作者の中への神的な「吹き込み」の所産であるということではなく、聖書は「神によって吹き出された」、つまり神の創造的息の所産であるということを意味している。 

 同じ箇所に、セオプニューストスの原義的説明として、次のように書かれています。
 
「神」を意味する(ギ)セオスと、「息を吐く」を意味する(ギ)プネオーから合成された動詞的な形容詞
 
                   ***
 
 私が問題を感じるのは、「聖書が人間的著作者の中への神的な「吹き込み」の所産であるということではなく」という否定の部分です。
 
 なぜ問題を感じるかを説明します。
 
 聖書というのは、神の息が直接パピルスや羊皮紙に記したものではありません。
 
 聖書筆者という人間を通して書かれた書物です。
 
 人間が何かを書く場合、まず初めに彼らのうちに情報がインプットされている必要があります。
 
 その情報が彼らのうちに存在するからこそ、それをアウトプットできるのです。
 
 にもかかわらず、「聖書が人間的著作者の中への神的な「吹き込み」の所産であるということではなく」と否定してしまうなら、
 
 極めて単純な論理的矛盾をきたすことになります。
 
 言い換えると、こういうことです。
 
 肺の中に吸引した空気があるからこそ、「吐き出す」ことが可能なわけです。
 
 しかし宇田先生は、肺への吸引を否定して吐き出すことだけを肯定しています。
 
 このような論理が、正しいはずがありません。
 
 私は、聖書が神の吹き出しによる所産であることを否定するつもりはありません。
 
 しかし、神的情報のインプットを否定することは、まったくの誤りだと思います。
 
 このことは聖書の記述からも証明できます。
 
 
エレミヤ20:9
私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。
 
 
 この箇所は、有名なエレミヤの不平の箇所です。
 
 エレミヤが「主のみことばは私の心のうちで」と告白しているとおり、
 
 預言の言葉は、彼が語る以前には、彼の心のうちに存在していました。
 
 これは、神の息である聖霊によるインプットの所産です。
 
 通常エレミヤは、それを自分の外側にアウトプット(預言)していたのです。
 
             ***

 このように、情報のインプットを否定することは聖書的にも誤りです。
 
 宇田先生の論理に問題があることは明らかです。
 
 聖書は神だけの所産ではなく、神と人間の協同所産であるということです。
 
 終わり