ダビデの日記

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「主の日」と携挙のタイミング


 この記事では、「主の日」との関連に基づいて携挙のタイミングを探ります。
 
 
1テサロニケ(4:15~18口語訳+5:1~2新共同訳)
15 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。
16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、
17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
18 だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。
5:1 兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。
5:2 盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。
 
 
 原文に近い訳文を作成するため、口語訳と新共同訳を組み合わせました。
 
 パウロは、4:15で「主の来臨」について説明しはじめます。
 
 16節に「すなわち」とあるとおり、16節以降は「主の来臨」についての説明です。
 
 5:1に「その時と時期」とあります。
 
 これは、4:15~17に描写された来臨と携挙が起こるタイミングのことです。
 
 5:2までの文脈からわかるとおり、来臨と携挙は「主の日」に起こるのです。
 
 主の日=来臨と携挙が起こる日
 
                  ***
 
 しかし、「主の日」にはこの他にも起こることがあります。
 
 
2ペテロ3:10~12
しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
11 このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。
12 神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。13 しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。
 
 
 10節を見ると、「主の日は、盗人のようにやって来ます」とあります。
 
 1テサロニケ5:2にも、「盗人が夜やって来るように、主の日は来る」とありました。
 
 このことから、2つの箇所の「主の日」が同じものであることがわかります。
 
「主の日」には天体と地球が焼失し(10節、12節)、万物が滅び去ります(11節)。
 
 また、「その日」には「新しい天と新しい地」が到来します。
 
 まとめると、こうなります。
 
 主の日=天地万物が滅び去り、新天新地が到来する日
 
                 
 これを読まれた方の中には、これらのことが1日の間に起こるはずがない、と思われる方がいるはずです。
 
 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。
 
 すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです2ペテロ3:8
 
 ペテロはこのように前置きした上で、「主の日」の内容を語っています。
 
「主の日」を理解するには、ゼカリヤ14章が助けになります。
 
 
ゼカリヤ14:1~7
1 見よ。主の日が来る。
2 わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。
3 主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。
5 私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。
6 その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。
7 これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある
 
 
 上記の描写から、「主の日」に再臨が起こることがわかります。
 
 NETバイブルスタディーノートによると、3節の描写はハルマゲドンの戦いです。
 
 また、七十人訳で上記の箇所を見ると、4節の「その日」は単数形ですが、1節の「主の日」は複数形で書かれています。
 
 7節の「ただ一つの」という部分は、ヘブル語でもギリシャ語でも「1」を意味する言葉が使われているだけです。
 
 これらを考え合わせると、「主の日」というのは単一の一日であると同時に、一定の期間でもあると推察できます。
 
 口語訳は、それを暗示する意訳がされています。
 
 
ゼカリヤ14:7・口語訳 
そこには長い連続した日がある(主はこれを知られる)。これには昼もなく、夜もない。夕暮になっても、光があるからである
 
 
 6~7節の「光も寒さも霜も」なく「昼も夜もない」という描写から、地球や太陽系の状態が現在と違っていることが示唆されています。
 
 更に読み進むと、エルサレムの状況が、黙示録22:1の天国の様子と似ていることわかってきます。
 
 
ゼカリヤ14:8~9
8 その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。
9 主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。
 
新共同訳14:8
その日、エルサレムから命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける。
 
口語訳14:8
その日には、生ける水エルサレムから流れ出て、その半ばは東の海に、その半ばは西の海に流れ、夏も冬もやむことがない。
 
 
 8節の「その日」は単数形ですが、「夏にも冬にも」とあることから、一日の間に季節が変わることがわかります。
 
 しかもエルサレムからは、「命の水/生ける水」が流れ出ると書かれています。
 
 七十人訳では、「生ける」の部分にザオー(生きる)という動詞が使われています。
 
 ザオーは、黙示録22:1の「いのちの水の川」に使われているゾエーの動詞形です。
 
 9節の「その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる」という描写は、メシアによる地上統治が実現していることを示しています。
 
 つまり、「主の日」というのは千年王国なのです。
 
 2ペテロの箇所から、「主の日=天地万物が滅び去り、新天新地が到来する日」という結果になったことと整合します。
 
 千年王国だとすれば、11節の「エルサレムは安らかに住む」という描写にも合点がいきます。
 
 再臨されたメシアが、そこから世界を統治しているからです。
 
 
●まとめ
 
 こういうわけで、携挙が起きるタイミングは、世の終わりの再臨の時です。
 
 再臨を皮切りに、メシアによる千年間の統治である「主の日」がはじまるのです。


 主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです(2ペテロ3:8)。


 終わり