「わたしの父のみこころを行なう者がはいるのです」は「行いによる救い」を教えている?
すでにコメントもでもお答えしたのですが、記事として加筆したいと思います。
●原文からわかること
マタイ7:21
わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
まず初めに、「はいる」と訳されているエイセルコマイという動詞が未来形で書かれているということです。
未来形で書かれていますので、そのニュアンスを日本語で表すと次のようになります。
『主よ、主よ。』と言う者がみな(将来的に)天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が(将来的に)はいるのです。
これを読んでいただくとわかるとおり、主イエスは現在における救いについて話しているのではありません。
つまり、救われるための条件を述べているわけではないということです。
●終末論的な意味合い
必ずというわけではありませんが、救いに関わる文脈の中で動詞が未来形で書かれている場合、しばしばその動詞は終末論的な意味合いを持ちます。
「天の御国」(=神の国)とは、再臨を通して可視的な形で訪れるキリストを王とした世界のことを指しています(黙示録21:1~2、黙示録22:1~5)。
主はその神の国に入る人の特徴を述べており、「父のみこころを行なう」というのがその特徴です。
この部分を原語で見てみると、「行なう」の部分の動詞が現在形で書かれています。
ギリシャ語の現在形には、英語で言う現在進行形の機能もあります。
つまり、「父のみこころを行っている者が(将来的に)はいるのです」と理解することが可能です。
神の御心を継続的に行うためには、その前に救われていなければなりません。
神との関係が回復されており、神への愛や忠誠心がなければ継続的に従い続けることはできません。
ですから、この箇所は、救われるための条件を教えているのではありません。
すでに救われており、御心を習慣的かつ継続的に行っているという特徴を持つ人が将来的に神の国に入ると教えているのです。
おわり