浅野淳博氏のガラテヤ2:16解釈の誤り その3
●パウロの義認論との比較
ガラテヤ2:16
しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
完了・継続・反復といった様相と無関係に,単に一つの出来事として動作・現象を示すもの。
(強調はダビデ)
この説明からわかるとおり、ガラテヤの箇所の「信じた」という行為には「継続・反復」の意味がありません。
このことは、「信じた」瞬間に義と認められたことを裏付けます。
つまり、パウロの義認論によると、過去のある時点で信じた瞬間に義と認められたのです。
この点は、アブラハムの義認とも一致します。
ガラテヤ3:6
それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。
この箇所の「信じた」もアオリスト過去形です。
言い換えると、神さまはアブラハムの信仰が醸成されるのを見届けて、それから義と認めたのではないということです。
主はアブラハムの信仰を見た瞬間に、義と認めたのです。
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醸成されるということは、「信じる」という行為が継続する、あるいは反復されることを意味します。
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この説明からわかるとおり、「線的な」信仰を表すのであれば、「信じた」の部分は未完了過去形でなければなりません。
この食い違いにより、浅野氏の義認論がパウロのそれと整合しないことがわかります。
最後にイエスさまご自身の義認論と比較します。
●主イエスの義認論との食い違い
ルカ18:13~14
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
意味的にも、パウロ書簡における(信仰による)義認と同じ義認を意味します1。
ルカの箇所を見ると、取税人が告白してから家に帰る前までの短い時間で義と認められていることがわかります。
このことは、義認という出来事が瞬時的なものであることを裏付けます。
つまり、年月をかけて醸成される信仰によって、人は義とされるというのが浅野氏の見解です。
このことから、義認もまた「線的なもの」であることになります。
主イエスが教える義認は瞬時的なもの。
浅野氏が教える義認は「線的なもの」。
どちらが正しくて、どちらを信じるべきかは言うまでもありません。
このように浅野氏の義認論は、主イエスご自身の義認論とも大きく食い違います。
注
1Justification by Faith in the Non-Pauline Writings of the New Testament, F.F. Bruce (p66~p69)
●あとがき
キリスト新聞は、浅野氏の主張が「原典から明示された」と書いています。
しかし、これまで見てきたとおり、浅野氏の義認論はまったくもって非聖書的です。
このような誤りに陥るそもそもの原因は、「キリストの誠実さ」という訳し方そのものが誤っているためです。
この誤りについては以下の過去記事で詳述していますので、関心がおありの方はご覧ください。
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私たちは、ベレヤの人々と同じ姿勢を取りつづける必要があります。
留学経験があり、有名な学者の言説を鵜呑みにするのではなく、常に聖書と照らし合わせるべきなのです。
使徒17:11
ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
終わり