聖書協会共同訳・翻訳委員会の内情
前回の記事を読まれた方から情報提供がありました。
それは聖書協会共同訳の翻訳委員をされた阿部包(あべつつむ)氏といわれるカトリック系聖書学者の講演録でした。
読んでみたところ、聖書協会共同訳・翻訳委員会の内情の一端が垣間見えたような気がしました。
以下に阿部氏の発言の一部を抜粋します。
わたしは長年カトリック的な環境の中で生活して参りましたので,次のような素朴な疑問を捨て切れずに来ました。神さまは行為によって義と認めてくださらないとすれば,義と認めてくださる信仰とは一体どのようなものなのだろうか?
行為と無縁な信仰はそもそも存在しうるのだろうか? パウロは本当にそのような奇妙なことを福音の真髄として宣教したのだろうか? わたしが大学院でパウロを読み始めたときも,こうした極めて素朴な疑問は解けていませんでしたし,その後も長い間解けずにきました。
上記に見られる阿部氏の疑念は、間もなく「信仰義認」に対する強い否定に変貌します。
以下がその部分です。
「21ところが今や,律法とは関係なく,しかも律法と預言者によって立証されて,神の義が示されました。22すなわち,イエス・キリストを信じることにより,信じる者すべてに与えられる神の義です。 」新共同訳・ローマ3:21~22
注目していただきたいのは,22節の「イエス・キリストを信じることにより」と訳されている箇所です。原文ではディア・ピステオース・イエースー・クリストゥーという前置詞句です。
(中略)
この前置詞句は,20節後半の「律法をとおして」ディア・ノムーを意識した構造になっています。律法とイエス・キリストのピスティスが対置されているという点が重要です。
つまり,パウロは,律法によっては罪の自覚しか生じない状況のただ中に,その律法とは関係なく,神の義が現されたのだと告げ,この神の義はイエス・キリストのピスティスをとおしてもたらされ,信じる者すべてに及ぶと説明しているわけです。
この文脈にわれわれの信仰が入り込む余地はありません。この点は非常に重要なので,思い切って言いましょう。わたしはわたし自身の信仰によって義とされることは決してありません。(強調は阿部氏本人)
出典:同(P5)
続いて阿部氏は、信仰義認を否定する訳語の講釈をはじめます。
イエス・キリストのピスティスをどう訳すかはともかく,「イエス・キリストを信じること」と訳す可能性は限りなくゼロに近いと思います。この点は,20世紀後半から21世紀初めにかけての新約学の到達点の一つと評価してよいと思います。
出典:同(P5)
●検証
阿部氏はまず、「この文脈にわれわれの信仰が入り込む余地はありません」と断言しておられます。
しかし、テクストであるローマ3章の箇所をご覧ください。
つまり、阿部氏は、パウロの意図を完全に誤解しているのです。
次に、阿部氏が強調する言葉にご注目ください。
「わたしはわたし自身の信仰によって義とされることは決してありません。」
阿部氏はこのように力説されますが、これは以下に挙げるパウロの言葉と100%矛盾します。
新改訳2017・ローマ3:28
人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。
新改訳2017・ローマ5:1
こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
新改訳2017・ローマ10:10
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
蛇足ではありますが、パウロは間違いなく「信仰義認」を教えています。
それにもかかわらず、阿部氏はそれを真っ向から否定するのです。
こうした荒唐無稽な断定表現に騙されてはなりません。
パウロの「ピスティス・イエスー・クリストゥ」における「イエスー・クリストゥ」は、属格形で表現されている。文法的には、名詞クリストスの属格クリストゥをピスティスの目的語と解すれば、ピスティスの意味上の主語はキリスト者であり「キリストを信じる信仰」と訳出できる。(ギリシャ語のカタカナ読みはブログ主ダビデ)
出典:新約聖書ガラテヤ書 2:16およびローマ書 3:22における"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"の日本語翻訳検証、P54
上記のとおり、「キリストを信じる信仰」と解せるからこそ、従来の邦語訳はそのように訳してきたのです。
以上はごく手短な検証ですが、阿部氏の発言が信頼に値しないものであることがおわかりいただけると思います。
このような人物が、聖書協会共同訳の翻訳委員を務めていたわけです。
聖書協会共同訳に見られる信仰義認を否定する訳語(「イエス・キリストの真実による義」など)は、
カトリックサイドからの反発、あるいは攻撃と言っても過言ではありません。
幸か不幸か、私は聖書協会共同訳を購入してしまいましたが、検証を通じて聖書の学びになればと思います。
おわり