ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

聖書協会共同訳のおかしな訳文 フィリピ3:9

 
 聖書協会共同訳のピリピ書を読んだところ、おかしな訳文に出くわしました。
 
 それはフィリピ3:9(ピリピ3:9)です。
 
 
聖書協会共同訳フィリピ3:9
キリストの内にいる者と認められるためです。には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。
 
                            (強調はブログ主)
 
 他の聖書では、こう訳されています。
 

新共同訳
キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義信仰に基づいて神から与えられる義があります。
 
新改訳2017
キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。
 
 
パウロの義認論
 
「キリストの真実による義」という訳し方の是非を問うために、義認に関するパウロの考え方を理解しておきましょう。
 
 そうすることで、「キリストの真実による義」という概念がパウロの意図したものであったか否かが判別できるからです。
 
 そのために、少し長いのですがガラテヤ3章を参考にします。


 
聖書協会共同訳・ガラテヤ3:1~5
1 ああ、愚かなガラテヤの人たち、十字架につけられたイエス・キリストあなたがたの目の前にはっきりと示されたのに、誰があなたがたを惑わしたのか。2 あなたがたにこだけは聞いておきたい。あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、信仰に聞き従ったからですか。3 あなたがたは、どこまで愚かなのですか。始めたのに、今、仕上げようとするのですか。4 あれほどのことを体験したのは、無駄だったのでしょうか。そうしようとしているなら、本当に無駄になってしまいます。5 神があなたがたに霊を授けあなたがたの間で奇跡を行われたのは、あなたがたが律法を行ったからですか。それとも、信仰に聞き従ったからですか。
 
 
 パウロは2節で、ガラテヤの信者が御霊を受けた理由(=救われた理由)を問うています。
 
 そこで対比されているのは、「律法」の行いと「信仰」に聞くことです。
 
 パウロは5節で再び、ガラテヤの信者が御霊を受けた理由を問うています。
 
 そこで対比されているのも、「律法」の行いと「信仰」に聞くことです。
 
 この「律法の行い」と「信仰に聞くこと」の対比を覚えていてください。

 ピリピ3:9とも関連するからです。
 

義認のポイントは「信仰」

聖書協会共同訳・ガラテヤ3:6~8
6 それは、「アブラハムは神を信じた。それ彼の義と認められた」と言われているとおりです。7 ですから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「すべての異邦人があなたによって祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。
 
 
 6節でパウロは、アブラハムが義と認められたポイントは、信じることであったと教えています。
 
 続く7節では、「信仰によって生きる人々」(直訳:ピスティスの者たち)こそ、アブラハムの子孫であると説明しています。
 
 つまり、アブラハムと同じ祝福を受けるには「信仰」が不可欠だということです。
 
 8節のポイントも同じです。
 
 神が人を義となさる手段は、「信仰による」と念を押しています。
 
 このように、義認のポイントは「信仰」です。

 これが、パウロの義認に関する考え方です。
 
 
ピリピ教会の問題点
 
 さて、それではピリピ教会の問題に戻りましょう。
 
 この教会の問題も、やはり律法の行いにありました。

 それについて説明します。
 
 ピリピ3章でパウロは、ある人たちのことを「犬ども」「悪い働き手たち」と呼んで問題視しています。


聖書協会共同訳・フィリピ3:2
あの犬どもに気をつけなさい悪い働き手たちに気をつけなさい。形だけ割礼を受けた者たち気をつけなさい。


 2節の後半を見ると、「悪い働き手たち」が割礼を受けたユダヤ人であったことがわかります。
 

聖書協会共同訳・フィリピ3:3~4
神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉を頼みとしない私たちこそ真の割礼を受けた者です。4とはいえ、肉を頼みなら、私にもあります。肉を頼みとしようと思う人がいるなら、私はなおさらのことです。


 続く3節には「肉を頼みとしない私たち」という表現があり、4節にも「肉を頼みとしようと思う人がいるなら」と言われていることから、
 
 ユダヤ人の偽教師たちの教えは、肉を頼みとさせる内容であったことが伺えます。
 
 また、5節には、パウロが八日目に割礼を受けたこと、「律法に関してはファリサイ派」であったことなど、律法を守る者としての誇りが感じられる表現が見られます。
 
 6節には、「熱心さの点では」教会を迫害するほどであったこと、「律法の義に関しては非の打ちどころのない者」であったことなどが挙げられています。
 
 これらのことから。パウロがピリピ教会で取り扱っていたのは律法主義の問題であったと考えらえます。
 
 この文脈の中で語れているのが、ピリピ3:9です。
 
 ですから、律法の行いを取り扱ったガラテヤ人への手紙を参考にすることは理に適っています。
 
 従って、パウロはピリピの教会に対しても、義と認められるためのポイントは「信仰」であると語たったはずです。
 
 このことを支持する表現として、ピリピ3:9の冒頭の「キリストの内にいる者」という表現があります。
 

聖書協会共同訳フィリピ3:8後半~9
それらを今は屑と考えています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。
 

「キリストの内にいる」(直訳:彼の内にいる)という表現は、パウロが「キリストとの一体化」を言い表すために使う表現です。

 このことから、9節においてパウロは、キリストとの一体化と義認を関連づけていることがわかります。
 
 この関連性が、「信仰」の重要性につながります。
 
 そのことを示す箇所として、1コリント15:22を挙げます。
 
 
1コリント15:22・口語訳 
アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。
 
 
アダムにあって」の直訳は、「アダムの内において」です。
 
 これはアダムと一体化していることを示す表現です。

 アダムが神に逆らって霊的に死んだように、アダムの内いる人は皆、霊的に死んでいます。
 
 同様に、キリストの内いる人、すなわち、キリストと一体化している人は皆、霊的に生かされています。
 
 つまり、私たちがアダムからキリストに移行される手段が、信仰であるということです。
 
 このことから、次の結論が導き出されます。
 
 キリストとの一体化は「信仰」によって生じるものであって、「キリストの真実」によって直接生じるものではないということです。
 
 たとい「キリストの真実」が目の前に存在するとしても、「信仰」によってそれを信じない限り、その人はキリストと一体化しないからです。

 従って、ピリピ3:9は、信仰が重点になる形で訳されるべきです。


新共同訳・フィリピ3:9
キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義信仰に基づいて神から与えられる義があります。


 この結論を支持する箇所として2コリント5:21を挙げます。

 パウロはこの箇所で、人はキリストと一体化することによって「神の義」になると教えています。
 
 
2コリント5:21・口語訳
神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。
 
 
 この箇所における「彼にあって」というフレーズは重要です。
 
「彼にあって」とは「キリストとの一体化」を表しているからです。
 
 つまり、人が神の義となる鍵は、神と人をつなぐ「信仰」にあるのです。
 
 そういうわけで、ピスティスを「信仰」と訳す従来の訳し方がパウロの義認論を的確に表していると思います。 
 
 おわり