ピスティス・クリストゥの解釈に関する考察
こうした解釈の仕方を客体的解釈(キリストを信仰の客体として解釈すること)と呼ぶことにします。
それに対して、私が挙げた根拠では不十分だとのコメントがありました。
そこで、この記事では、客体的解釈を支持する根拠について書こうと思います。
●「ピスティス+名詞の属格」の事例
新約聖書中に見られる「ピスティス+名詞の属格」表現の事例を挙げながら、それらの箇所が客体的解釈を支持するものであることを示します。
マルコ11:22
イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。」23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
22節の「神を信じなさい」の部分はエケーテ ピスティン セオウと書かれており、文法的には次のような構造になっています。
持ちなさい(命令形の動詞)+ピストス(信仰)の対格+セオス(神)の属格
それゆえ直訳すると、「神の信仰を持ちなさい」となります。
しかし23節における主の勧めを考慮した場合、「神への信仰を持ちなさい」と解すべきです。
この場合、信仰を持つべきなのは信者ですから、信仰(ピスティス)の主体は信者となります。
逆に言うと、神を信仰の客体とする客体的解釈が妥当だということです。
使徒3:16
この箇所の「その御名を信じる信仰」は、ピステイ トウ オノマトス アウトゥと書かれています。
オノマトス(名前)とアウトゥ(彼の)が属格なので、直訳すると「彼の名の信仰」となります。
しかし文脈上、これでは意味が通りません。
それゆえ、ここは「彼の御名を信じる信仰/彼の御名への信仰」と解さざるを得ません。
その場合、この信仰の持ち主は「この人」(生まれつき足のきかない男)です。
つまり、信仰(ピスティス)の主体は信者です。
すなわち、「御名」を信仰の客体とする客体的解釈が妥当です。
エペソ3:12
私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。
この箇所の「キリストを信じる信仰によって」はディア テース ピステオース アウトゥと書かれています。
アウトゥ(彼の)が属格であるため、直訳すると「彼の信仰を通して」となります。
しかし、この文章の主語は「私たち」ですから、「彼の信仰」の持ち主もやはり「私たち」です。
従って、「彼を信じる信仰/彼への信仰を通して」と解さざるを得ません。
言うまでもなく、ここでも信仰の主体は信者です。
すなわち、「彼(キリスト)」を信仰の客体とする客体的解釈が妥当です。
ピリピ1:27
ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、
この箇所の「福音の信仰」の部分には、ピステイ トウ エウアンゲリオウと書かれています。
エウアンゲリオウが属格ですから、直訳すると「福音の信仰」となります。
ここは直訳のままでも意味が通りますが、このフレーズの実質的な意味は「福音を信じる信仰/福音への信仰」であることは誰でもわかると思います。
従って、「信仰」の主体は信者です。
「福音」は信仰の客体であって、主体ではありません。
コロサイ2:12
「神」と「エネルゲイアス」が共に属格なので、直訳すると「神の力の信仰を通して」となります。
しかし文脈上、これでは不自然です。
それゆえ、「神の力を信じる信仰/神の力に対する信仰」と解すべきであることは明らかです。
従って、この箇所においても「信仰」の主体は信者です。
すなわち、「神の力」を信仰の客体とする客体的解釈が妥当です。
2テサロニケ2:13・新共同訳
しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。
この箇所の「真理に対するあなたがたの信仰」は、ピステイ アレセイアスと書かれています。
アレセイアス(真理)が属格なので、直訳すると「真理の信仰」となります。
しかし文脈上、「真理を信じる信仰/真理に対する信仰」と解さすべきであることは明白です。
(「あなたがた」に当たる言葉は原文にはありませんが、実質的にこの訳文は妥当です)
従って、この箇所の「信仰」の主体も信者です。
すなわち、真理を信仰の客体とする客体的解釈が妥当です。
●まとめ
これらの事例からわかるのは次のことです。
聖書の本文は、名詞の属格という文法的性質よりも文脈に重きを置いて書かれている
これを踏まえて、次の箇所を見てみましょう。
聖書協会共同訳・ローマ3:21~28
21しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました。22 神の義は、イエス・キリストの真実(ピスティス)を通して、信じる者すべてに現されたのです。そこに差別はありません。23 人は皆、罪を犯したため、 神の栄光を受けられなくなっており、神の恵みによって、24 キリスト・イエスによる贖いを通して、価(あたい)なしに義とされるからです。25 神は、イエスを立てて、その真実(ピスティス)によって、その血による贖いの座となさいました。それは、これまでに犯されてきた罪を見逃して、ご自身の義を示すためでした。26 神が忍耐してこられたのは、今この時にご自身の義を示すため、すなわち、ご自身が義となり、またイエスの真実(ピスティス)に基づく者を義とするためでした。27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り去られました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰(ピスティス)の法則によってです。28 なぜなら、私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰(ピスティス)によると考えるからです。
(ピスティスの加筆はブログ主)
新改訳・ローマ3:21~28
21しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。28 人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
どちらの邦語訳も、「人が義と認められるのは…信仰による」と帰結しています。
この「信仰」の主体は、言うまでもなく信者です。
つまり、この箇所全体におけるピスティス(信仰)の主体が信者なのです。
これは、上記の「ピスティス+名詞の属格」の事例の結果とも一致します。
従って、この箇所におけるピスティス・クリストゥは「キリストへの信仰/キリストを信じる信仰」と客体的に解すべきです。
おわり