ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「キリストを信じる信仰」か「キリストの忠実さ」か?  その3

 
 その2では、複数の根拠を更に挙げて、「キリストを信じる信仰」という解釈が正しいことを述べました。
 
 この記事でも、さらに根拠を挙げて「キリストを信じる信仰」という解釈が妥当であることを説明します。
 
 その前に、前回、最後に説明したピリピの箇所はとても重要ですので、少し説明を加筆します。
 
 
ピリピ3:9
キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰(ピステオス+クリストウ)による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
 
 
 この箇所の「キリストを信じる信仰」の部分がピステオス+クリストウであることは前回も述べました。
 
 それゆえここは文法上、「キリストの忠実さ」と訳すことも可能です。
 
 しかし、その後につづく「信仰(ピステイ)に基づいて、神から与えられる義」という部分のピステイは、「忠実さ」と訳すことは不可能です。
 
 なぜならこの箇所のピステイは、文脈上、信者が表明するものだからです。
 
 もしここを「忠実さ」と訳した場合、それは信者の忠実さということになり、それに基づいて神の義が与えられるという意味になってしまいます。
 
 これはこの聖句で、まさにパウロが否定していることですから、「信仰」と訳す以外に道はありません。
 
 それゆえNTライトでさえ、次のように訳しています(KNT,p405)。
 
 
 the covenant status from God which is given to faith.(強調はブログ主)
   信仰に対して与えられる神からの契約の身分 
 
 
 そういうわけで、繰り返しになりますが、パウロ自身がこの箇所でピステオス+クリストウを言い換えています。
 
 そして、その言い換えは、「信仰に基づいて」です。
 
 ですから、ピステオス+クリストウは「キリストを信じる信仰」と訳すべきであり、それがパウロ自身の意図であると考えなければなりません。
 
 
5)アブラハムの信仰(ローマ4章) 
 
 キリストの忠実さによる義認ではなく、信者の信仰による義認という理解が正しいことを示す箇所は、何と言ってもローマ4章です。
 
 その理由の一つは、パウロ自身が創世記15:6のアブラハムの信仰義認の箇所を引用して論じているからです。
 
 引用元の創世記15:6には、「信じる」を意味するヘブル語の動詞アマーンが使われていますから、信じることに基づく神からの義認という理解を否定しようがありません。
 
 それゆえ、ローマ4章にはピスティスが10回使われていますが、NTライトはその中の一つも「忠実さ/faithfulness」と訳していません(KNT,P316~P318)。
 
 すべて「信仰/faith」と訳しています。 
 
 
6)ピステオス+クリストウを使わすに信仰義認を示している聖書箇所
 
 以下に、ピステオス+クリストウという名詞句を使わずに信仰義認を示している箇所を列挙します。
 
 これらはどれも、「キリストの忠実さ」による義認ではなく、信者の信仰に対する義認を意味しています。
 
ローマ4:3
聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。
 
ローマ4:5
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
 
ローマ4:11
彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、
 
ローマ5:1
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
 
ローマ9:30
では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。
 
ローマ10:4
キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
 
ローマ10:10
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
 
ガラテヤ3:6
アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。
 
ガラテヤ3:8
聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。
 
ガラテヤ3:24
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
 
ガラテヤ3:26
あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
 

7)教父たちはみな信仰義認を語っている
 
 時が経過する中で神学が発展し、信仰義認の再解釈が必要になったという趣旨の見解を目にすることがありますが、
 
 かえって時が経過することで、神学的理解が劣化しているケースが多々見られます(このブログでは後者のケースを主に扱ってきました)。
 
 それゆえ、初期の教父たちの言説を確認するという作業がますます重要になってきています。
 
 初期の教父たちはみな、ギリシャ語が堪能でした。そのような教父たちが口を揃えて、信仰義認を語っています。
 
 
私たちの主イエス・キリストも、肉においては彼(アブラハム)の子孫の中から生まれました。王や祭司、ユダ族の指導者たちも、彼(アブラハム)の子孫から起こされました。
 
神が「あなたの子孫は天の星のようになる」と約束したからには、イスラエルの他の部族も、小さな栄光すら受けることはできません。
 
それゆえ、これらの者たちが高い誉れを受け、偉大な者とされたのは、自分たちのためではなく、自分たちの行いによるのでもなく、自分たちの功績による義のゆえでもなく、主の御心のわざによるのです。
 
そして、キリスト・イエスにある御心により召された私たちも、自分の知恵や悟り、敬虔によって義と認められるのではなく、心の聖さによって成した行いによるのでもなく、信仰によるのである。
 
その信仰により、全能なる神は、初めからすべての人を、義と認めてこられた。その神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。

 ANF: Vol. I, The Apostolic Fathers, First Epistle of Clement to the Corinthians, Chapter 32.

 
クリソストム349年~407年)
父祖アブラハム自身、割礼を受ける前に、ただ信仰のお陰によってのみ、義と認められていた。割礼を受ける前にである。その聖書箇所にはこうある。「アブラハムは神を信じ、それが彼の義と認められた。」

Fathers of the Church, Vol. 82, Homilies on Genesis 18-45, 27.7 (Washington, D.C.: The Catholic University of America Press, 1990), p. 167.

 
ヒエロニムス354年~430年)
ローマ10:3の注釈:「神は信仰によってのみ、義とお認めになる。」 

In Epistolam Ad Romanos, Caput X, v. 3, PL 30:692D.
 

アウグスティヌス354年~430年)
では、働きのない人はどうなるのか(ローマ4:5)。…人が、不敬虔な者を義と認める方を信じるとき、その信仰が信者の義と見なされる。
 
ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを告げているとおりである(ローマ4:5~6)。これは如何なる義であろうか。信仰の義である。善行が(義認に)先行するのではなく、善行は義認の結果なのだ。

John E. Rotelle, O.S.A., ed., WSA, Part 1, Vol. 11, trans. Maria Boulding, O.S.B., Expositions of the Psalms 1-32, Exposition 2 of Psalm 31, (Hyde Park: New City Press, 2000), p. 370.
 
*引用元の論考には、上記以外にも多数の事例が挙げられています(英語)。
 
 
●まとめ
 
 これまで7つの理由や根拠を挙げて、「キリストを信じる信仰」による義認という理解が正しいことを述べてきました。
 
 元をただせば、この問題はギリシャ語表現の翻訳の問題です。
 
 ギリシャ語学者でESV聖書の翻訳委員でもあるビル・マウンス(William Mounce)氏は、ブログ記事の中で次のように述べています。
 
 
This verse is a good example of how subtle language is, how words must be understood in context, not just the context of a sentence or a paragraph but of what we know from the Bible as a whole.  
この聖句は、言語の微妙さを示す良い実例である。文言は、文脈の中で理解しなければならない。一つのセンテンスや一つの段落の文脈だけでなく、聖書全体からわかっている脈絡の中で理解しなければならない。
 
*ガラテヤ2:10のこと
 
 
 つまり、単に文法的に「キリストの忠実さ」と訳せるから、それが正しいということにはならないということです。
 
 終わり