ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「キリストを信じる信仰」か「キリストの忠実さ」か?  その2


 その1では、パウロピステオス+クリストウというギリシャ語表現を使う場合、
 
「キリストの忠実さ」ではなく、信者の信仰という意味で使っていることを述べました。
 
 そのことを示す聖書箇所も多数挙げました。
 
 この記事では、ピステオス+クリストウを、「キリストを信じる信仰」と理解すべき理由をさらに書き加えます。
 
 
2)「キリストの忠実さ」を意味する内的証拠がない
 
 ピステオス+クリストウを「キリストの忠実さ」と訳した場合、例えばローマ322は次のようになります。
 
「すなわち、イエス・キリストの忠実さによる神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」
 
 この場合でも確かに意味は通りますし、キリストの従順が義認の土台になっているという事実に間違いはありません。
 
 しかし重要なのは次の点です。
 
 キリストは義認の土台を据えたものの、人間側が信仰を表明しない限り、神から義と認められることはない
 
 だからこそパウロは、信じることが義認の鍵であることを強調しているのです。例えば、
 
 
ローマ4:3
聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。
 
ローマ10:10
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
 
 
 このように、信じることによる義認の証拠は多々ありますが、キリストの忠実さ」を名詞句以外で強調している箇所は見当たりません
 
キリストの忠実さ」という概念そのものを否定すべきではありませんし、この概念自体に何らかの誤りがあるわけではありません。
 
 問題はパウロがピステオス+クリストウと書くときに、キリストの忠実さ」という意味でそうしていないことであり、
 
 それゆえ「キリストの忠実さ」と訳した場合、パウロの意図が曲げられてしまう点にあります。
 
キリストの忠実さ」による義認を極端に強調した場合、その分、人間側の信仰表明の必要性が薄れることになります。
 
 それゆえ、ベクトルとしては、万人救済論に近づくことになります。 
 
 実際、信仰義認を否定するキリスト教進歩主義の一部は、万人救済論を説いています。
 
 また、人間の罪深さを軽視する方向にもシフトしかねません。
 
 実際、NPPは、義の意味を契約加入権と見なして、義が持つ道徳性を隠してしまうため、人の深さと救いを関連づけない傾向があります。
 
 これらの理由から、キリストの忠実さ」による義認という解釈が、パウロの主張であることを立証する十分な内的証拠がない限り、

キリストの忠実さ」説を採用すべきではないと思います。
 
 どうしてもキリストの忠実さ」説が正しいと証明したいのであれば、
 
キリストの忠実さ」という名詞句以外で、パウロがキリストの忠実さによる義認を主張している内的証拠を挙げる必要があります。
 
 しかも、信仰義認のそれを上回る分量でです。
 
 
3)キリストは主体ではなく対象
 
 パウロの記述を文法的観点から見た場合、キリストはピスチュオーやピスティスの対象として表現されており、主体として表現されていません。例えば、
 
 
ピリピ1:29・口語訳
あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。
 
 
 この箇所の「彼を信じる」という部分はエイス+アウトゥー+ピスチューエインと書かれています。
 
「を」に相当するエイスという言葉は前置詞で、信じる対象を示しています。

 そして、対象になっているのは「彼」、すなわちキリストです。
 
 つまりパウロは、キリストを「信じること」の対象として表現しているのです。
 
 一方、キリストの忠実さ」という解釈は、キリストが忠実さ(ピステオウ)の主体になっていますから、パウロの意図と逆行していることがわかります。
 
 ガラテヤ326も、同様のことを示しています。
 
 
ガラテヤ3:26
あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
 
 
キリスト・イエスに対する信仰」の部分は、ピステオス+エン+クリストー+イエソウと書かれており、
 
 エンという前置詞が、キリストを信仰の対象とする役割を果たしています。
 
 こういった箇所から、パウロがキリストを信仰の対象として表現していることが、ありありとわかります。
 
 パウロの記述では、キリストはピスチュオー(信仰)の対象であって、主体ではないのです。
 
 
4)義はキリストから直接来るのではなく、「信仰に基づいて」与えられるもの 
 
 パウロの神学では、義はキリストから人間に対して直接来るものではなく、あくまでも信仰を通して与えられるものです。
 
 次の箇所を見ると、パウロの考え方がはっきりとわかります。
 
 
ピリピ3:89
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰(ピステオス+クリストウ)による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
 
 
 特に、9節にご注目ください。
 
 ここには、「キリストを信じる信仰(ピステオス+クリストウ)による義」という表現が見られます。
 
 これだけを見るなら、「キリストの忠実さによる義」とも訳せるので、「キリストの忠実さ」説が正しいかのように思えます。
 
 しかし9節の後半で、パウロはこのフレーズを言い換えています。
 
「すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義」と。
 
 つまり、パウロの考えでは、義というのは(人間側の)信仰に基づいて与えられるものなのです。

 パウロ本人が、そのように言い換えているのですから、第三者である私たちがそれを否定するのは大きな間違いです。

 私たちは、パウロ自身によるリフレーズをレンズにして、ローマ3章やガラテヤ2章の義認の箇所を見るべきです。

 ピリピ3:9は、「キリストの忠実さ」説が間違いであることを証明しています。