「キリストを信じる信仰」か「キリストの忠実さ」か? その1
このフレーズは、ローマ3章とガラテヤ2章を中心にして、パウロの書簡の数カ所で使われています。
一例として、ローマ3:22を挙げます。
この部分は、文法的な用語で言うと「属格」という表現形式になっています。
宗教改革者ルターは、この属格の部分を「目的格属格/objective genitive」と理解し、
この理解がその後も受け入れられ、近年まで定着してきました。
この訳し方は、信仰を行使するのは信者側で、キリストはその信仰の対象(目的)であるという理解に基づくものです。
この従来の考え方に基づくと、神は信者の信仰を義と見なすことになります。
しかし2005年に、New English Translation(NETバイブル)という聖書が発行され、その聖書では「faithfulness of Christ/キリストの忠実さ」と訳されています。
この訳し方をすると、キリストが忠実に律法を守り神に従ったことが義認の原因として強調され、義認における人間側の責任が薄れることになります。
この形式で訳した場合、キリストがピスティス/忠実さの主体者になり、文法的にいうと、ピステオス+クリストウを「主格属格/subjective genitive」として理解することになります。
ところが1年半前に、NTライトの私訳聖書「キングダム・ニュー・テスタメント」(以降はKNT)を読んだところ、
問題のフレーズが「faithfulness of Christ/キリストの忠実さ」と訳されていたのです。
その後、この問題について調べていくうちに、「キリストの忠実さ」という理解にはいくつもの問題点があり、従来の理解のほうが妥当であることが判明しました。
1)パウロはピスティスを信者の信仰の意味で使っている
ピステオス+クリストウを「キリストの忠実さ」と理解した場合、多くの箇所でパウロが意図していることと不整合が生じます。
ガラテヤ3:26
この箇所の場合、ディア+ピステオス+エン+クリストウと書かれており、キリストの部分は対格で属格ではありませんから、「キリストの忠実さ」と訳すことは不可能です。
NTライトも、faith in, the Messiah, Jesus(メシアなるイエスを信じる信仰)と訳しています(KNT,P386)。
つまりパウロは、人間による信仰の表明が救いの条件だと言っているわけです。
このことは、キリストの忠実さによる義認という理解がパウロの意図したものではないことを示しています。
ガラテヤ2:16でもパウロは、キリストを信仰の対象とした義認を語っています。
ガラテヤ2:16
しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰(ピステオス+クリストウ)によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じた(ピスチュオー過去形)のです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰(ピステオス+クリストウ)によって義と認められるためです。
この箇所では、2カ所のピステオス+クリストウの間に、動詞であるピスチュオーが使われているので、
つまりパウロの考えでは、義認はキリストの忠実さで生じるものではなく、人がキリストを信じることによって生じるものなのです。
ローマ1:5、8、12、同3:27、28、30、31、同4:5、9、11、12、13、14、16、19、20、同5:1、2、、同9:30、32、、同10:6、8、17、同11:20、同14:23、同16:26
ガラテヤ2:20、同3:2、5、7、8、9、11、12、14、26、同5:5、6