ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「信仰による義認の再解釈」に関する疑問 その4

 
 この記事は、クリスチャン・トゥデイ掲載のコラム「福音の回復(45)誰が救われるの?―信仰による義認、予定説」(前編後編)に関するものです。
 
 その3では、救いは「意識できない」ものだとする三谷氏の見解に、あからさまな誤りがあることを証明しました。
 
 この記事では、予定説を完全に否定している三谷氏の問題点を、ごくシンプルに述べたいと思います。
 
 
選びという表現は「隠喩」
 
 三谷氏はコラムの前編で、次のように述べています。
 
 
「予定説」の根拠となるのは、神の「選び」という御言葉である。
 
 これは聖書に何度となく登場する(マタイ24:31、マルコ13:20、27、ヨハネ15:16、19、ローマ9:11、11:5、28、Ⅰコリント1:27、ガラテヤ1:15、エペソ1:4など)。
 
 こうした「選び」という言葉を見ると、神が一方的に誰を救うかを決めているかのような印象を受ける。
 
 しかし、そうした印象は誤解である。神の「選び」とは、人にまったく左右されない神の自由な意思が人を救うことを教えるための隠喩にすぎない。
 
「選び」とは、人を救うのは神の自由な意思であって、その意思は、人の「行い」(働き)にはまったく左右されないということを言い表すための表現である。
 
 誰か特定の人を救うという意味では決してない。そのことは、次の御言葉を見ればよく分かる。
 
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)
 
 
 このように三谷氏は、神の選びを示す聖書的表現は「隠喩」に過ぎないと言います。
 
 そういった箇所を読んだ人が、神は救われる人を選んでいるのだと理解した場合、それは「誤解」だと述べています。
 
 
問題点の検証
 
ヨハネ15:16
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
 
 
 三谷氏よれば、この箇所における選びは「隠喩」だということです。
 
 これは直接的には、十二弟子に対する主イエスの言葉ですから、主が十二弟子を選んだ行為そのものが「隠喩」だったことになります。
 
 つまり次の箇所で、主イエスが弟子たちを任命したことも隠喩だということです。
 
 
マルコ313~19
さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
こうして、イエスは十二弟子を任命された。そして、シモンにはペテロという名をつけ、ゼベダイの子ヤコブヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、イスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。
 
 
 ここで主イエスが十二弟子を選らんだこと(任命したこと)が隠喩であるなら、十二弟子という集団は存在しなかったということになります。
 
 また、弟子たち本人も、自分たちが選ばれたと信じていたので、彼らは自分の選びを「誤解」していたことになります。
 
 以下の箇所で、「お選びなるか」と訳されているのは、ヨハネ1516に使われているのと同じエクレゴマイ(選ぶ)というギリシャ語です。
 
 
使徒1:25
この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。」
 
 
 弟子を選ぶ/任命するという主の行為が隠喩であるのなら、主イエスが三谷氏を牧師として選び、任命したことも隠喩だと考えるべきです。
 
 仮に三谷氏ご本人が、自分は牧師として主に選ばれたという「印象」を持っているとしても、それは「誤解」なのです。
 
 ちなみに、三谷氏のような解釈はウエスレアンでもしません。
 
 少なくとも本元のジョン・ウエスレー自身は、ヨハネ15:16について次のように解釈しています。
 
Ye My apostles, have not chosen me, but I have chosen you - As clearly appears from the sacred history: and appointed you, that ye may go and bear fruit - I have chosen and appointed you for this end, that ye may go and convert sinners: and that your fruit may remain - That the fruit of your labours may remain to the end of the world; yea, to eternity; that whatsoever ye shall ask - The consequence of your going and bearing fruit will be, that all your prayers will he heard.
 
 
                  ***
 
 この問題は、新約聖書だけでは済みません。
 
 三谷氏は、ローマ11:28の「選び」も「隠喩」だと述べています。
 
 
ローマ11:28
彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。
 
 
 この箇所の「彼ら」「神に敵対している者」はユダヤ人のことですから、
 
 ユダヤ人が選ばれたことは隠喩であって、そのような歴史的事実はなかったということになります。
 
  
主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。
 
申命記10:15
主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。今日あるとおりである。
 
 
 上記の箇所で述べられている選びが隠喩だったとすると、「選民イスラエル」とか「ユダヤ人は選民」という概念は「誤解」だということになり、
 
 ユダヤ人という民族が歴史的に選民であったという理解も、歴史を通じて世界中の人々が「誤解」していたことになります。
 
 パウロ書簡で言及されている「ユダヤ人もギリシャ人もない」という表現も、「誤解」あるいは「隠喩」だと考えなければなりません。
 
 パウロユダヤ人が選ばれた民族だという前提でローマ11:28を書いていますから、パウロも誤解していたということになるのです。
 
 言うまでもなく、ローマ書11章の野生のオリーブの木と栽培種のオリーブの木の区別も、パウロの「誤解」だということになり、終末論にまでも影響することになります。
 
 このほか、旧約の預言者たちも自分が預言者として選ばれたと考えていましたから、誤解に基づくむなしい活動をしていたことになります。
 
  
●感想
 
 三谷氏の持論には、明らかに問題があります。
 
 三谷氏は、「そうした印象は誤解」だとか、選びという表現は「隠喩」だと言うことによって、読者を丸め込もうとしているのです。
 
 三谷氏のコラムを支持する方もおられますが、私はとても賛同できません。
 
 次回は三谷氏のコラムの批評をいったん中断し、このコラムとNPPに共通する問題である「キリストを信じる信仰」の解釈について記事を書きます。