ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

「信仰義認の再解釈」に関する疑問 その5

 
 この記事は、クリスチャン・トゥデイ掲載のコラム「福音の回復(45)誰が救われるの?―信仰による義認、予定説」(前編後編)に関するものです。
 
 その4では、聖書に書かれている「選び」という表現は「誤解」であり「隠喩」だとする三谷氏の主張が、
 
 実にいい加減なものであり、読者を欺こうとするものであることを浮き彫りにしました。
 
 この記事では、再び三谷氏の論理に見られる悪質さを示そうと思います。 
  

●三谷氏の主張
 
 三谷氏はコラム前編2)「神の選びの計画」というセクションで、次のように持論を展開しています。
 
 
ゆえに神は、神の呼び掛けに「応答」する者を誰であろうと、例外なく救われる。これが、神の自由な意思である。
 
そうした神の意思があるからこそ、神は人が生まれる前から、人が善も悪も行わないうちに、人の行いには関係なく人を救う計画を持つことができる。それを、「神の選びの計画」という。
 
「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、」(ローマ9:11)
 
「神の選びの計画」とは、このように神が特定の誰かを救うという計画ではない。神が誰の上にもなされる呼び掛けに対し、「応答」する者を救うという計画である。
 
                              (強調はブログ主)
 
●問題点と検証
 
 この数行だけでも、突っ込みどころは一つだけではありませんが、見逃せない悪質な部分に焦点を当てます。
 
 それは次の一文です。
 
「神の選びの計画」とは、このように神が特定の誰かを救うという計画ではない。
 
 ここで三谷氏は、「このように」という短い修飾語だけで、「神の選びの計画」の意味をいきなり結論づけています。
 
神の選びの計画」とは、本当にそのような意味でしょうか?
 
 三谷氏の論法とは裏腹に、このフレーズの意味を明確にするには、脈絡を辿ってパウロの主張をきちんと押さえていくことが必要です。
 
 共に、その作業を進めましょう。
 
神の選びの計画」というフレーズが登場するローマ911の脈絡は、6節から始まります。
 
 
ローマ9:67・新共同訳
ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、7 また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」
 
 
 パウロ6節で、「神の言葉」の「効力」の話をしています。
 
 イスラエルに対する神の言葉は効力を失っていない、ゆえに過去においても未来においても成就する、
 
 それがこの脈絡のテーマです。
 
 パウロは、「神の言葉」の事例として次のようなものを挙げています。
 
「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」(創世記21:12)
②「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」(同1810
③「兄は弟に仕えるであろう」(同2523
④「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(マラキ123
 
 これら神の言葉が過去において実現したように、これからも実現するとパウロは説いています。
 
 ここで、11節と12節をつなげる必要が出てきます。
 
 三谷氏は11節だけしか引用していませんが、11節は文が完結していませんから、12節まで続けない限り、「神の選びの計画」というフレーズの意味は読み取れません。
 
 典型的な聖句の悪用です。
  
 11節だけを見せて、ほうら「神の選び計画」の意味はコレコレですよと、示してしまうところに、聖書釈義のいい加減さと読者に対する欺きがあります。
 
 実際、新共同訳は、11節と12節が分離しにくいことから、二つの聖句を一つにまとめて表記しています。
 
 
ローマ9:11-12・新共同訳
その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。
 
 
 さて、創世記に書かれているとおり、「兄は弟に仕える(であろう)という神の言葉は、実際に成就しました。
 
 長子の権利がエサウからヤコブに移り、兄のエサウと弟のヤコブの関係は逆転します。
 
「神の選びの計画」が人間側の意思や選択を超越しており、それらに左右されず、妨害もされず、語られたとおりに成就することがわかります。
 
「神の選びの計画」の卓越性は、まるで人の意思を無視しているかのようなので、それでは「神の不正ではないのか?」という疑問が出てきます(14節)。
 
 しかしパウロは、その疑問に対して次の言葉で答えます。
 
「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」(出エジプト33:19)
 
 この引用箇所は、神の主権の卓越性を示しています。

 神というお方は、自分が選んだ人間を憐み、自分が選んだ人間を慈しむものなのだ、ということです。
 
 神には、自分の望むままを自由に行える権威がある、それは不正ではない、創造主としての当然の権利なのだ、というのがパウロの説明です。
 
 先ほど挙げた①~④の言葉も参考にして考えるなら、「神の選びの計画」というフレーズの意味は、概ね次のようにまとめることができるでしょう。
 
 
神の選びの計画」= 神が選らんだ特定の人物に対して成就する神の計画
 
 
 これを三谷氏の結論と比較してみましょう。

 
三谷氏:「神の選びの計画」とは、神が特定の誰かを救うという計画ではない
 
パウロ神の選びの計画」とは、神が選らんだ特定の人物に対して成就する神の計画
 
 
●まとめ
 
 三谷氏が、パウロと逆のことを言っているのがおわかりだと思います。
 
 三谷氏の論理展開の特徴の一つは、読者を欺こうとすることです。
 
 丸め込まれることがないよう、注意しましょう。