ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

終末のイスラエルの民族性と歴史的前千年王国説の不備

 
 ジョージ・エルドン・ラッドは、「終末論」の著者として日本でも知られています。
 

 歴史的前千年王国説の執筆も担当しています。
 
 しかしラッドは、新約聖書のみから終末のイスラエルを論じているため、

 ある間違いを犯しています。

 この記事では、それを指摘しようと思います。
 
 
ジョージ・E・ラッドの思い違い
 
へブル8:13 
神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。
 


 ディスペンセーション的千年王国説における旧約聖書の字義的解釈を批判し、

 次のように述べていますP26P27
 

旧約預言の字義的解釈に基づくディスペンセーション的前千年王国説の中心的主張の一つは、エゼキエル40章~48章の預言に基づき、千年王国においてユダヤ教の神殿が再建されて、生贄制度が全面的に再び導入されるというものである。…
 
旧約的生贄制度が回復するという概念は、それが記念としてであろうとなかろうと、へブル813に真っ向から反している。この箇所は、古い契約が古びて、過ぎ去って行こうとしていることを露骨に肯定している。
 
それゆえへブル8813は、ディスペンセーション神学を2つの点で否定している。この箇所は、旧約聖書ではイスラエルと呼ばれている、キリスト教会に対して預言を適用している。また、キリストにある新しい契約が古い契約に取って代わったため、古い契約は過ぎ去ってゆく定めにあることを肯定している。
                                (引用終わり)


 ここでラッドが主張しているのは、

 旧約聖書の預言は教会に成就したので、イスラエルには成就しないということです。
 
 しかし救いの契約が更新されたからといって、

 旧約聖書の預言や、その他の記述がすべて無効になったわけではありません。
 
 事実、新約聖書の筆者は、旧約の預言、その他の記述を頻繁に引用し、

 それを土台にして新約の教えを構築しています。

 この原則は、終末論も例外ではありません。
   
 例えばパウロは、ローマ11章でイスラエルの民の終末論的救いを論じています。

 その中で、以下に挙げる旧約の聖書箇所から引用しています。

 
113    1列王記1910
114    1列王記1918
118    イザヤ610
11910  詩篇692223
112627  イザヤ592021

 
 特にローマ1126パウロは、「こうして、イスラエルはみな救われる」と述べ、

 イスラエル民族が終末に救われると結論づけています。
 
 この結論は、以下のイザヤの預言に基づいています。
 
 
イザヤ59:2021
「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」――主の御告げ。――「これは、彼らと結ぶわたしの契約である。」と主は仰せられる。「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。」と主は仰せられる。
 
 
 この箇所によれば、終末に神がイスラエルを訪れ、永遠の「契約」を結びます。

 以下がその契約です。
 
「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。」
 
 この部分の「あなた」というのは20節の「ヤコブ」のことを指しており、

ヤコブ」はイスラエル民族を指しています。
 
 このことから何がわかるのでしょうか?

 終末におけるイスラエル民族の救いについては、旧約の預言が鍵になる

 ということです。
 
 これはラッドの主張と矛盾します。
 
 パウロとラッド、どちらが正しいかは言うまでもありません。
 
 終末論を論じる上で、旧約聖書は鍵になるのです。
 
 この点を否定する終末論は、間違いを含むと言わざるを得ません。
 
 
契約神学における不備
 
 契約神学にも、ラッドと共通する間違いがあります。
 
 契約神学に立つ神学者ヴェルン・ポイスレス氏は、

 終末論におけるイスラエルと教会について次のように論じています。
 
 
しかしそれはまた私たちを次の結論にも導きます。つまり、イスラエルと教会の間の相違というのは根本的に、救いを完遂すべくキリストが来臨される「前」と「後」における神の民の間の相違であるということです。
 
それはユダヤの血統の人々の将来についての問いによっても、別の方法でその含意が見い出されるでしょう。こういった人々はどのようにして救われ、そして彼らの相続に与るのでしょうか?今やキリストがご自身の業を成し遂げてくださり、救いはもはや予型や影、予測や予兆といった事柄ではなくなりました。
 
救いはキリストとの合一によるものであり、それ以外の方法はありません。そしてその救いは、現在であれ千年王国期であれ、ユダヤ人および異邦人をして、キリストの「構成員」と成さしめます。
 
彼らは新しい人類として公同的にひとつです。それゆえに、キリストというひとつのかしらの下にあるこういった新しい人類を二つに引き裂くということはもはや考えられないという事になります。
 
 
引用元:
 
 
 上記の論述は、ディスペンセーション主義が主張する、

「神の二つの民」という概念への反論です。
 
「神の二つの民」という表現は、受け取り方によっては確かに間違っています。
 
 ポイスレス氏が述べておるとおり、イスラエルと教会は「公同的にひとつ」です。
 
 救いの道が一つしかないからです。
 
 しかしパウロはローマ112324で、

 1本のオリーブの木が2種類の枝を持つことになる、と言っています。
 
 
彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。ローマ11:23~24 
 
 
 17節に「枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ」とあるとおり、

 野生種のオリーブの枝とは異邦人クリスチャンのことです。
 
 イスラエルという栽培種の枝は、「不信仰によって折られ」ました(20節)。
 
 その代わりに野生種のオリーブの枝がつがれた状態が、現代の教会です。
 
 現在は、幹と根は栽培種のオリーブで、枝は野生種という状態です。
 
 しかしキリストの再臨に伴って、イスラエルの民は悔い改めて主イエスを信じます。
 
 その結果、「栽培種のもの(枝)」が元の栽培種の「台木につがれる」のです。
 
 これによりオリーブの枝は、野生種栽培種の2種類になります。
 
 オリーブの木の幹や根は一本でも、枝は2種類あるのです。
 
 24節に、野生種の枝が「もとの性質に反して」栽培種の台木につがれたとあるとおり、
 
 性質の異なる枝が2種類あるのです。
 
 ここで「性質」と訳されているギリシャ語はフーシスと言い、
 
自然の秩序、自然の原則」という意味です。
 
 次のような箇所で使われています。
 
 
ローマ1:26 
こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、
 
どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。
 
 
 このフーシスは、神が万物創生の際に定めた「自然の秩序であり原則」ですから、
 
 万物が更新されるまでフーシスは不変です。
 
 イスラエル民族のフーシスが保たれることを、パウロはこう表現しています。
 
 
神の賜物と召命とは変わることがありません。ローマ11:29
 
 
 こういうわけで、(民族の性質)という視点で見れば、2つの神の民が存在します
 
 この点でディスペンセーション神学は間違っていません。
 
 にもかかわらず契約神学は、

 枝という視点から見た「二つの神の民」という概念を認めようとしません。
 
 この点で間違っているのです。
 
 これはラッドと共通する間違いです。
 
 聖書の一部分だけから解釈すると、このような不備が生じます。
 
 パウロは預言書や他の旧約の箇所に基づいて、終末のイスラエルを論じています。
 
 終末を論じるときは、包括的に聖書を見る必要があるのです。