ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

イスラエルの民族性

 
 イスラエル民族に関する終末論的解釈は、見解が分かれています。
 
 同じプレミレであっても、ディスペンセーション的プレミレと歴史的プレミレでは、
 
 イスラエル民族に関する見解が異なります。
 
 この問題について岡山英雄氏が著書「小羊の王国」の中で論じているので、
 
 以下に引用します。
 
 
 終末論において「イスラエル」は、民族としての独自性を持つ。それゆえイスラエル民族の特殊性を認めず、新約の教会によってその役割が置き換わったとする「置換神学」には問題がある。歴史の終末的完成において、イスラエルは何らかの重要な役割を果たすものと思われる。
 
なぜならローマ9~11章において、パウロイスラエル民族についての神の計画について述べ、その結論として11章で終末的完成としてのイスラエル」の救いについて語っているからである。
 
イスラエル人の拒絶によって福音は異邦人にもたらされたが、「異邦人の完成のなる時」(同1125)が来たなら、その結果「イスラエルはみな救われる」(同1126)というイスラエルの終末的な救い、その「奥義」についてパウロは述べる。
 
「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」(同112526
 
 この「イスラエル」の解釈については意見が分かれるが、民族的イスラエルとは無関係な「新約の教会」(カルヴァン)とするのは説得力を欠く。
 
なぜならパウロは、この主題を扱う始めの部分で、「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです」(同93)と述べ、イスラエル人として、同国人の救いを熱心に願っているからである。…
 
 むしろこの箇所が何らかの意味での「終末におけるイスラエル民族の回心」(G・ヴォス、J・マーレイ、C・ホッジ、GE・ラッド、RH・ガンドリー、FF・ブルース、TE・マコミスキイ)について述べていると考える方が自然である。…
 
 イエスは「御民イスラエルの光栄」(ルカ232)として地上に来られ、福音はまず「イスラエルの家の失われた羊」に宣べ伝えられた(マタイ1061524)。
 
そして十二使徒には、「世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです」(同1928)との約束が与えられた。
 
またイスラエル民族に対する「神の賜物と召命」とは変わることがない(ローマ1129)。それゆえ終末において、イスラエル民族には何らかの重要な役割が与えられていると考えられる。
                                 
改訂版「小羊の王国」(いのちのことば社)、「イスラエルの民族性」(P226P228
 
 
●あとがき
 
 イスラエル民族について、私は上記の岡山英雄氏の見解に賛成です。
 
 確かに都は一つであり、神はお一人であり、救いは一つです。
 
 イスラエルと異邦人信者は、キリストにおいて「新しいひとりの人」となり、
 
「両者を一つのからだ」とされました(エペソ21516)。
 
 
 しかし黙示録21章を見ると、新天新地の都は「新しいエルサレム」と命名されおり、
 
 それはイスラエルという国、あるいは民族を象徴しています(2節)。
 
 また都の門には「イスラエルの子らの十二部族の名」が書かれ、

 それが未来永劫にわたり残ります(同12節)。
 
 これらのことは、イスラエルという民族が神の目にユニークな存在であり、

 その民族の特殊性が永遠に保たれることを意味しているのではないでしょうか。
 
 イスラエルの民族性を過小評価する終末論は、聖書と合致しいないように思えます