ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

神の怒りと患難前携挙説の矛盾


 患難前携挙説によると、患難後携挙説の矛盾点の一つは、
 
 教会が患難期を通過することで神の怒りを受けることだとされます。
 
 この記事では、患難前説がこの主張をするときに、
 
 気づいていない誤解について述べたいと思います。
 
 
ローマ5:9 
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
 
 
 この聖句は、患難前携挙説が患難期前の携挙を肯定するためによく持ち出す箇所です。
 
 この箇所は、クリスチャンが「神の怒りから救われるのは」当然だと教えています。
 
 だから、神の怒りが現れる患難期を信者が通過するのはおかしい、というわけです。
 
 しかしこの聖句が「神の怒り」と言うときに、
 
 具体的に何を意味しているのかを考える必要があります。
 
 それを説明するために、まずローマ53を見ます。
 
 
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し
 
 
 パウロ5:9を書く前に、クリスチャンは患難を喜ぶべきだと書いています。
 
「患難」という言葉はスリプシスといい、次の箇所でも使われています。
 
 
黙示録2:10 
あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。
 
黙示録7:14 
そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
 
 ローマ書の「患難」と黙示録の「苦しみ、患難」は、
 
 どれも単数形で書かれており、同じ言葉ですから意味も変わりません。
 
 このことからわかるのは、
 
 クリスチャンは、患難期で経験するような「患難」すらも喜ぶべきだということです。
 
 それが聖書の教えです。
 
 ここでローマ59に戻ります。
 
 パウロ53で、信者は患難を避けるべきではないと言いましたから、
 
 59で「神の怒りから救われる」というとき、「神の怒り」という表現の中に、
 
「患難」を含めていないことは明確です。
 
 つまりパウロが言うところの「神の怒り」というのは、
 
「患難」で苦しむという意味をもたないのです。
 
 患難前携挙説はこの点を見落としています
 
 実際パウロは、1テサロニケでも同じことを言っています。
 
 
1テサロニケ3:4 
あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。
 
 
 このようにパウロの頭の中では、
 
 クリスチャンが患難や苦難に会うことは、もともと許容されていることでした。
 
 パウロの考えでは、信者が患難に会うことは「神の怒り」と無関係なのです。
 
 では「神の怒り」とは、具体的には何を意味するのでしょうか?
 
 それは過去記事「神の怒りと患難後携挙説」を土台として説明しますので、
 
 この後の説明は簡潔に進めていきます。
 
 ローマの箇所の「神の怒り」には、終末論的な意味合いがあります。
 
 具体的には、再臨時の不信者の滅びに現れる神の怒りです。
 
 ローマ59の「神の怒り」の部分を「永遠の滅び」と置き換えてみると、
 
 意味が通りますのでやってみてください。
 
 パウロがローマ書を書いたとき、
 
 世の終わりが相当近いと考えていたことに気づくなら、
 
 この見解を理解する助けになります。
 
 それは13章の記述からわかります。
 
 
ローマ13:1112 
あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。
夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
 
 
 茶色で強調した部分は、どれも霊的な時代が変わることを指す表現です。
 
 来るべき時代が到来するのが相当近いと、パウロが考えていたことがわかります。
 
 例えば、「今は救いが…近づいた」という言うとき、
 
 これは信仰義認という意味の救いではありません。
 
 終末論的な意味での救い、つまり再臨による救いの完成を指しています。
 
 ですから「神の怒り」と再臨を関連づけて考えることは、
 
 ローマ書全体の脈絡に沿っています。
 
 ここまでをまとめると、こうなります。
 
パウロの言う「神の怒り」=終末論的な永遠の滅び(患難での信者の苦しみは含まない)
 
患難前携挙説の言う「神の怒り」=患難時代の出来事で象徴される神の怒り
 
 
 このように、患難前説による「神の怒り」の定義は、
 
 パウロが言うそれと食い違っています。
 
 
救いは一種類しかない
 
 次に、患難前携挙説に内包されている矛盾について説明します。
 
 先に引用した黙示録の聖句をもう一度見てください。
 
 
黙示録7:14 
そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
 
 
 この箇所には、いわゆる「患難時代の聖徒」と呼ばれるクリスチャンが登場します。
 
 こういった箇所により、患難時代の地上にクリスチャンが存在することがわかります。
 
 この事実を患難前携挙説は認めています。
 
 その上で患難前説は、クリスチャンが神の怒りに会うことは矛盾だと主張します。
 
 ところが「患難時代の聖徒」が神の怒りに会うことは矛盾だとは考えません。
 
 これは何を意味するかというと、
 
 患難前説は、2種類の救いがあること容認しているということです。
 
 一方は、神の怒りを象徴する患難期を通らない救いを受けたクリスチャン、
 
 もう一方は、神の怒りを象徴する患難期の只中を歩む救いを受けたクリスチャンです。
 
 しかし聖書には、2種類の救いがあるという教えはまったく書かれていません。
 
 ですから患難前説は、非常に大きな矛盾を内包しているのです。
 
 次の箇所は、キリストにある救いが1種類しかないことを明言しています。
 
 
エペソ4:45
からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
 
 
 4節には「からだは一つ」とあります。
 
 これはキリストの体、つまり信者の共同体を指しています。
 
 聖書によれば、信者の共同体は1種類しかないということです。
 
 また、信仰や洗礼も一つしかないと書かれています。
 
 ということは、キリストにある救いは1種類しかないということです。
 
 
●あとがき
 
 患難前携挙説は、

 救いの性質に違いをつけない限り説明できない内容を内包しています。
 
 それは聖書的に無理のある論理です。
 
 私たちは、このことに気づく必要があります。