患難前携挙説にとって無意味/矛盾と思われる黙示録の言及
黙示録の中には、患難期前に教会が携挙されることを前提にした場合、
意味がないと思える記述や、矛盾しているように思える箇所がいくつかあります。
この記事では、それを取り上げます。
黙示録1:7
見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。
この箇所は、地上再臨を描写しています。
「雲に乗って来る」というのは、地上再臨の特徴です(ルカ21:27)。
地上の諸民族がそれを目撃するという点からも、地上再臨であることが明らかです。
患難前携挙説が正しいのなら、今にも起こりかねない携挙について語る方が、
遥かに理に適うことになります。
というのは、 1節には「すぐに起こるはずの事」とあり、
3節にも「時が近づいている」とあるからです。
患難前携挙説によれば、同説の強みは、患難期前に携挙が起こると言うことで、
緊迫性・切迫性を伝えられることです。
☆ ☆
黙示録1:19
そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。
この箇所も7節と同じことが言えます。
患難前説が正しいのなら、
携挙は今にも起こるかもしれない、教会にとっての最重要事項です。
終末の出来事として、携挙を外すことは考えられません。
ところが黙示録には、地上再臨についての記述はありますが(19:11~)、
携挙の記述はありません。
患難前説を信奉する方々は、3:10がそれだと言うかもしれませんが、
3:10に使われているギリシャ語エクの使われ方は、
ギリシャ語の辞典や文法書の説明と、患難前携挙説の説明とでは食い違っています。
試練の時から教会を取り去る、という意味の書き方はされていません。
ですから携挙は、「この後に起こる事」の中に含まれていないことになるのです。
それとも主イエスは、このとき携挙のことを忘れていたのでしょうか?
☆ ☆
黙示録2:11
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれことはない。
この箇所で主イエスは、スミルナ教会に約束をしています。
「勝利を得る者」は「第二の死」を免れるという約束です。
では、「第二の死」を免れさせる主の方法は何かというと、「第一の復活」です。
次の箇所からはっきりわかります。
黙示録20:6
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。
このように、2:11の約束と20:6のメッセージの間には相関関係があります。
ヨハネはこの相関関係を承知した上で、
スミルナ教会への約束を書いていることになります。
さて、患難前携挙説が正しい場合、教会は「第一の復活」には預かりません。
携挙の際に復活してしまうからです。
ところが、この「教会」の中には、スミルナ教会のクリスチャンたちも含まれます。
ということは、患難前説が正しい場合、
スミルナ教会のクリスチャンたちは「第一の復活」に預からないことになり、
ヨハネは相関関係を無視して、2:11の約束をスミルナ教会に伝えたことになります。
これは、どう考えてもおかしいのではないでしょうか?
スミルナ教会が「第一の復活」と無関係であることがわかっていたにもかかわらず、
ヨハネは2:11や20:6を書いたのでしょうか?
☆ ☆
患難前説が正しい場合に、もう一つ腑に落ちない点があります。
20:6の「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である」という言葉が、
教会にとって何の意味もなくなってしまうことです。
患難前携挙説によれば、
「第一の復活」に預かるのは、「患難時代の聖徒」のみだからです。
しかし教会というのは、2000年余りにわたり、世界中に存在してきたわけですから、
「患難時代の聖徒」よりも、圧倒的に人数が多いはずです。
それなのにその教会にとって無意味になるであろう言葉を、
神はヨハネに書かせたことになります。
これはどう考えても、全知全能の神らしくありません。
しかしスミルナ教会が患難期を乗り越えるという前提で考えるなら、
また終末時代を生きる教会が患難期を乗り越えるという前提で考えるなら、
2:11の約束や20:6のメッセージは、教会にとって大きな励ましになるのです。
●おわりに
患難前携挙説は、いろいろな点から見て腑に落ちないことが多々あります。
土台となっている聖書解釈も表面的であったり、間違っていたりします。
同説が間違っている場合、教会が患難期を通過する備えを妨げることにもなります。
同説を信じることを選択される方は、どうぞ慎重に吟味なさってださい。