患難前携挙説の聖書解釈の問題点
患難前携挙説を信奉する方々の中には、熱心に聖書を学んでいる方もおられます。
しかしだからといって、その方が同説を主張するとき、
聖書箇所を正しく解釈しているとは限りません。
この記事では実例を挙げて説明します。
●あるブログ
『患難期中期携挙説』と『患難期後携挙説』は、携挙の時期を特定出来ることになり、マタイ24:36のみことばと矛盾します。
“その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。” ーこのみことばが成就するには【患難期前携挙説】しかあり得ないのです。
(引用終わり)
このように書かれていると、
「なるほど。携挙は何の前兆もないときに突然起こるから、確かにこの御言葉と合致するなぁ」
と思ってしまいます。
ところが、この説明の仕方には、ごく初歩的な誤りがあります。
文脈を無視していることです。
36節の「その日、その時」というフレーズが、何を指しているかを考えていません。
まるで携挙を指してるかのように思い込んでいるのです。
では、「その日、その時」という言葉で主イエスは何を指しているのでしょうか?
それは一つ手前の35節を見ればわかります。
マタイ24:35~36
35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
読んでおわかりのとおり、「その日、その時」が指しているのは、
天地が滅び去る日時のことです。
携挙の日を指しているわけではありません。
携挙よりも後に起こる、万物の更新について述べているのです。
つまりブログを書いている方の頭の中は、携挙ありき、患難前説ありきの状態で、
一つ手前の脈絡さえも捉えていないのです。
患難前説は、このような解釈の仕方で肯定されています。
このような説を信じてよいのでしょうか?