パウロにおける「栄光」の意味 ローマ3:23の再考
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ローマ3:23・新共同訳
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが…
皆さんは、この箇所の「栄光」という言葉を、どのような意味で理解しておられるでしょうか?
ある論考には、ローマ3:23の「栄光」についてこう書かれています。
また、別のブログには、こうあります。
アダムは、堕落する前は、神の臨在の中で生きていました。神の臨在はアダムの光で、彼は、神の臨在の中を歩んでいました。アダムは神の栄光そのものでした。
●栄光=神の有形の臨在
それによってわかったことは、「ドクサが神の有形の臨在を指している」ということでした。
このドクサの定義に基づくと、パウロによる「栄光」という言葉の使い方が上手く説明できるそうです。
終末においてクリスチャンに与えられる栄光は、人類が失ってしまった栄光であり、刷新された神の栄光の現れなのだと。
●神の栄光であって、アダムの栄光ではない
「アダムの栄光は、おもに永遠のいのちと関連している。しかし、この終末論的栄光を神の栄光と同一視することはできない。
アダムの栄光という概念は、アダムが神のかたちに創造されたという概念とは、かなり異なっている」と、博士は言います。
アダムの栄光は神の臨在に依存してはいるが、両者を融合することはできないと博士は言います。
●神の臨在
神の栄光は、神の臨在を象徴するものです。
ローマ9:4を見ると、イスラエルの民が栄光を所有していることがわかります。
ローマ9:4
彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。
ローマ1:23
滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。
彼らはホレブで子牛を造り、鋳物の像を拝んだ。こうして彼らは彼らの栄光を、草を食らう雄牛の像に取り替えた。
エレミヤ2:11
かつて、神々を神々でないものに、取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は、その栄光を無益なものに取り替えた。
あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった。16 堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない。男や女の形も、17 地上のいかなる獣の形も、空を飛ぶ翼のあるいかなる鳥の形も、18 地上を這ういかなる動物の形も、地下の海に住むいかなる魚の形も。
このことから博士は、「神の栄光は、ホレブにおける神の顕現(臨在の現れ)との関連で理解してよい」と結論づけます。
また、ローマ1:23とローマ3:23の間に、強い関連性があることは明らかです。
それゆえ博士は、ローマ3:23はホレブとの関連の中で理解すべきだと言います。
つまり、イスラエルの民は、全人類の縮小版の役割を果たしているのです。
イスラエルの民と同じ様に、全人類も罪を犯して神の臨在を失ったのです。
ただし、博士は、神の栄光と神の臨在を同一視しているわけではありません。
神の栄光は、「神の臨在の象徴的な現れ」だと考えているのです。
それゆえ、終末においてクリスチャンに与えられる栄光は、アダムに与えられていた栄光の回復だと考えるべきではなく、
神との関係が回復したことによって新たにされた神の臨在なのだと博士は言います。
●クリスチャンが追い求めるべきもの
ローマ2:7、10
グリンドハイム博士は、クリスチャンの人生の意義は「栄光と誉れ」を追求することにあると言います。
「栄光と誉れ」というペアの表現を七十人訳の中で探した結果、グリンドハイム博士は13の事例を発見しました。
「この表現が神学的な意味で使われている箇所では、『栄光と誉れ』は常に神にのみ属している」と博士は言います。
ではクリスチャンは、どのように「栄光と誉れ」を求めればよいのでしょうか?
「栄光と誉れ」が神ご自身の特徴であるのなら…「栄光と誉れ」を求めることは神ご自身と神の臨在を求めることに他ならない、とグリンドハイム博士は言います。
「栄光と誉れ」はもともと人間のものではなく、憐みと恵みによって神が与えてくださるもの。
「栄光と誉れ」がクリスチャンのものになるのは、神との関係の回復によるのだと博士は結論づけます。
●あとがき
黙示録21:23、26
都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。…こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。
私はこの論考を読んで、上記の箇所を思い出しました。
この箇所は、ローマ2:7と10とも整合します。
クリスチャンは、栄光と誉れと不滅ものを求めるよう召されているのだと思います。
終わり