ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

新約聖書の権威を弁証する 脱「循環論法」 前編


 聖書の無誤性を批判された場合の対処について、書きたいと思います。
 
 特に、キリスト教進歩主義などから出てくる批判として、福音派の聖書論は「循環論法」にすぎないという批判があります。
 
 以前にも当ブログで取り上げた進歩主義者が、ブログで次のように述べています
 
「聖書は一字一句誤りなき神の言葉」という主張を僕は否定しますが、こういう議論になると相手は必ず2テモテ3:16を出してきます。しかし2テモテ3:16の「霊感」を無誤無謬の根拠にするには弊害がありすぎて…
 
 この後、彼は次のように言います。
 
1. まず、聖書の無誤無謬を聖書で示すというのは循環論法であり、説得力がありません。… 
                               (強調はダビデ
 
 このように、「循環論法」だと批判された場合、もはや2テモテ316は根拠にできません。
 
 私たちは、どうすればよいでしょうか?
 
 
脱「循環論法」
 
 その対処法を、「聖書信仰とその諸問題」からご紹介します。
 
 聖書の権威を説く場合、聖書の記述だけを証言にすると循環論法に陥ります。
 
 そこで、「聖書+イエスの言葉」という二つの証言者を立てて、循環論法から抜け出します。
 
弟子たちは聖書とイエスが言われたことばとを信じた。ヨハネ2:22 
 
 この箇所でヨハネは、「聖書とイエス」という二つの信仰の対象を挙げています。
 
 言い換えると、弟子たちは聖書の証言とイエスの言葉を区別していたのです。
 
 ゆえに、私たちも、この二つの証言を別々のものとして扱うことができます。
 
 前出の神学書の著者の一人である鞭木先生は、次のように述べています(p256~p258)。
  
 確かにキリストについて私たちは聖書から情報を得ますが、聖書を通してキリストを知ったのち、キリストとの生ける交わりに入ります。
 
 私たちが聖書から得たキリストについての知識は、私たちが他の書物を通してある人物について得た知識とは根本的に違うものです。
 
 聖書を通して知ったキリストについての知識は、生きていて、私たちが日々経験するものです。
 
 それは聖書に基づきながら、同時に私たちの日々の経験です。
 
 ですから、私たちは聖書の自証(自己証言)とキリストの証言とを区別することができるのです。
 
 聖書と同時にキリストも証言しているのであれば、証人は二人となり、それはもはや循環論法ではありません。
 
 申命記1915節のように真実な証言は「ふたりの証人の証言、または三人の証言によって、そのことは立証されなければならない」のです。
 
 こうして循環論法の限界は崩され、みことばの権威は一層輝き出るのではないでしょうか。
 
 
旧約聖書の権威
 
 このように、旧約聖書に関する証言者は、聖書そのもの+イエス・キリストです。
 
 ですから、イエス旧約聖書を神の言葉だと証言している箇所を引用すれば、旧約聖書が神の言葉であると論じることができます。
 
 例えば、主イエスは、次のような箇所で旧約聖書が神の言葉であると言っています。
 
マタイ15:3
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。
 
マタイ22:31
それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。
 

  後編