新約聖書の権威を弁証する 脱「循環論法」 後編
このように、キリストの権威と言葉を借りることで、循環論法に陥ることなく旧約聖書が神の言葉であると論じることができます。
しかし、これまで述べたことは、旧約聖書に関してだけです。
新約聖書の権威は、どう説明すればよいのでしょうか?
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。ヨハネ16:13~14
これらの聖句の中で、弟子たちは聖書を書くという驚くべき能力を約束されている。
1テサロニケ2:13
こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。
1テサロニケ14:37
2ペテロ3:15~16
また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。
同様のことは、パウロの場合にも見られる。
1テモテ5:18
聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。
この箇所の最初の「 」内は申命記25:4の引用、2番目の「 」内はマタイ10:10とルカ10:7の引用です。
それをパウロは一括して、「聖書」と呼んでいます。
このように使徒たちは、互いの書物を神の言葉、すなわち正典として認識していました。
●あとがき
どちらが正しいかは、明らかですね。
終わり